役割交代という尊義

先日、クルーの内省から他人事について考える機会がありました。

人は一般的には自分のことと他人のことを分けていて、これは自分と関係するものか、それとも関係しないかで自ら一線を引いているようにも思います。危機感というものもまたここから薄れていくのかもしれません。

これらの心理には何が働いているのかというのを深めてみました。

そもそも他人事というものは、相手は相手で自分は自分というようにまさか相手が自分と同じなどとは思わないというところから考えることがはじまっているように思います。逆を言えば、もしかしたらこの人は自分だったのではないか、もしくは相手は自分の代わりにしてくださったのではないかなどは考えないように思います。

例えば、動物の世界では集団という群れで生きていますがあるものは食べられ、あるものは生き残ります。名前もない世界ですが、同じ仲間、家族として生きていけば自然の法理に従って生き死にを瞬間に分かち合っているのです。その世界では、ひょっとしたら明日は我が身かもしれないという危機感の中で共に自分の出来事として共感するのです。

しかし人間は自他を分けて個人主義になり、画一化された自我の中で線引きし自分のことしか考えなくなると次第に周囲への思いやりよりも自分を守ることを優先することになっていきます。ここに矛盾が発生するのも、周囲がなければ自分が立たず、自分が立つのは周囲の御蔭であるということ、自他とは御互いにつながりお世話し合う中で存在していることを忘れるということです。

またこのようになるには、幼少期からの教育もあり、本来は自分でそういうことを考えないといけないことを考えないという弊害から発生しているようにも思います。もしも自分のことだと思えば、世界への関心というものは開けていきます。他国の戦争は他人事ではなく、もしかしたら自国のことになるかもしれません。さらに極端かもしれませんが、相手は生まれ変わったら自分が同じ境遇になるかもしれません。

それくらい御互いに体験をシェアしつつ、御互いの人生を生き切ることで互いに生き残るために助け合っているのが人間社会であるようにも思います。

社會というものを考える時、本来は自他一体、もしも相手が自分だったら、もしもお客様が自分だったら、もしも会社が自分の会社だったら、もしも自分が・・だったらと共感していくことが共生しているということになるのです。

自分の立場の責任だけを果たせばいいとか、自分はここまでやればいいとか、自分というものを線引きして自分の都合で割り切ることは実は本来の全体の中での自分という考えではなく、自分が中心で周りは自分に合わせている付属的要素のような考えになってしまうのです。

自分があるのは、先祖代々より親が子を養い、そしてまたその子が親になり子を養うように、世話をしてくださった人があって自分が今度は世話をする番になるというように役割交代をしながら自他一体共に支え合って生きているのを忘れてはいけません。その生きざまには自他一体で御互いに大切な大義のためにいのちを支え合っていきている尊い絆があるのです。

例えば死にゆくものの気持ちが分かるのがそれは死ぬときでは、あまりにも生き残った自分の役割を考えなていないのではないかとも思うのです。共感力が落ちるということは、それだけ自分自身であることの意味が喪失しているということなのかもしれません。

だからこそ他人事というものは、もっとも御縁御恩を忘れる行為として戒めなければなりません。全部のことを身近なところから自分事にして「もしも自分だったら」とそこから考えるということが、人間社會に活かされ所属させていただいているという自覚になっていくのでしょう。

この自分くらいという考えが、多くの人達の足をひっぱっていくのを忘れてはいけないと思います。もしも自分がやったことが廻り巡っていつか自分の家族や子どもたちにツケが周るとしたらと思えば、、、きっと誰もがとても他人事には思えないと思います。

その前には必ず自分に返ってきますから、全てを自分事として役割交代なのだと真摯に相手のために自他一体で全身全霊を尽くすのが礼義になるように私は思います。

私達人類皆兄弟、一家であるということがもう一度これから思い出される必要を感じます。慈悲という気持ちも、またその苦しみや悲しみから産まれてくるように思いますから真心の実践を積み深めていきたいと思います。