人は何かに打ち込む時に、盡力を尽くすという言い方をします。
この盡力というものは、盡心から出てくるものですがこれは力を出すという意味ではなく持てるだけのすべてのありったけの力を尽くしますという意味です。これも簡単には文字にはできますが、これを実行するというのは本当に難しいことなのです。
孟子にこういう言葉があります。
「その心を盡すものはその性を知る。その性を知れば則ち天を知る。その心を存し、その性を養うは、天に事うる所以なり。妖寿たがわず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり」
孟子にとっての盡すというものは、その天命を盡すことであり、そのために存心のままに修養し、全身全霊のいのちを懸けて修身することであると述べているように私には思えます。
日々というのも時事というものも、どれも過ぎ去っていくものです。その中でどれだけ、自らを盡して生き切るかというのは、自然である姿としてのいのちそのもののように生き切っていかなければなりません。
あの鳥や虫たち、植物たちと同じように春夏秋冬様々な四季の中でそのものの天命を遣り切っていくのです。そこには、心だけが活きているのです。
私たちは心を遣うということよりも、頭を使うことを優先してから大切なことを忘れているのかもしれません。その大切な事とはあまりも当たり前すぎて見向きもされなくなった「心」のことです。
心というものは、その全ての根源であり、私たちは心を通じ合って存在し合っているものです。その心をおざなりにして心を高めていくことをやめたなら、本来の人生そのものの価値を見失ってしまうのかもしれません。
心があるからこそ、その心に応じて観える世界は顕現していきます。もしも心が亡くなれば、それに応じて無機質な世界が顕現するのです。
身を修めるというのは、理性で感情をコントロールすることを言うのではありません。身を修めるというのは、その心を高めるということです。心を高めていけば身は次第に修まっていくものです。
修身というのは、つまりはその真心を盡すことの大切さを実践と学問により高めていくということであろうと私は思います。そして真心盡すとかいて、「盡心」です。
大義に活きるのなら、日々の全てに手を抜かず丹誠を籠めて取り組んでいかなければなりません。あの自然界に倣って本来のあるべき姿を学び直していきたいと思います。