本物の実力~リーダーの育成~(常本番の定理)

人は何によって成長するのかを考えるとき、それは具体的な仕事によって成長するということが分かります。学校のようにいくら受講形式で学んだとしても、それが具体的な成長になるかといえばなりません。

例えば、海で泳げるようになるには教科書を読んでも泳げる人の話をただ聞いても泳げないのは水に慣れないからです。そして自分で実際に泳いでみたことがないからです。そしてもしもプロのように上手に泳げるようになるには目的が必要になります。それが仕事としてレスキューするとか、スキューバをするとか本番実践の現場で成長し上達するのです。

これは「人を育成するもっとも役に立つ教育の道具は、仕事である」というドラッガーの言葉を忘れてはならないということです。

ドラッガーは、マネジメントといった実力を備えるためには「経験が必要」であり、「実践の場」で、しかも、「マネジメント力が必要とされる立場での経験」が必要だと論破します。

そのような立場が与えられていないのでは実力は備わることはなく、挑戦的で大きな責任と権限が伴う仕事こそがその人を真に成長させるのだと見抜いています。今の社会では責任を持たずに仕事をすることで仕事になっているところがあります。

それでは責任のない形式的な作業になり全体の問題や課題を解決するものにはなりません。しかしその人が本質的な仕事を身に着けるには自らで問題や課題を解決するために全責任を果たすようなリーダーとしての仕事になっている必要があるのです。そしてそこではじめてその人物は本物として成長して確固たる真の実力を備えていくのでしょう。

ドラッガーの言う本来の学習とは、会議室や教室の中で受講する形式で行われるようなものではなく必ずアプライ(実践への適用)によってのみ可能であると言い切ります。これは今までの学び方を刷り込みを指摘するものであり、マネジメント力をつけさせるのに単に上司の講義や過去のケーススタディーで終わってしまい、実践への適用がなされなければ決して本物の力はつかないということなのでしょう。

このブログでも、ブログで読んだだけでは学べず読んだことを実際の現場で試すことではじめて本質がものになっていくという具合なのでしょう。真に学びが多い人はそれだけ多くの現場を持っているということです。

現場に出る大切さや現場そのものがなぜ大切で必要かと言えば、その本番の場数を体験しなければ決して人は本物として成長しないということを自覚自明するからです。自分の今までを思い返しても、今あるプロフェッショナルの仕事はすべて現場で身に着けた智慧だからです。

学んだことをすべて現場で試す、現場でぶつける、現場で検証する、現場後に改善する、全てが現場実践、つまりは本来の仕事とはすべて「勉強のための勉強」ではなく、社会で活用し有効となるために「本番のための本番」でなければならないということです。

いくら勉強ばかりしたとしても本番で善い仕事ができなければそれは決して実力が備わった一流のリーダーになったとはいえません。一流のリーダーや人格を磨くというのは学んだことを現場で活かすために学ぶのです。

それは言い換えれば、現場で学び、現場で育つ、そして具体的に自分の強みを活かし、自他を活かし、会社を活かし、社会を活かし、世界を活かすという自らリーダーとして自立するということを意味しているように私は思います。

現場とは本番だという定義を持ち、本番こそが人を育てるということを確信することでしょう。
私自身も刷り込みによって、教え方を間違えてしまうことが多々あります。
常に成長とは何か、リーダーとは何か、強みとは何かを忘れないようにしたいと思います。

人材育成はリーダー育成であることを肝に銘じて精進していきたいと思います。

 

継続という名の応援

昨日、今までの事業について色々と話し合う機会がありました。

何かを続けるということは、沢山の失敗や限界、また成功や可能性がありますがその一つ一つを話していることで苦しいこともありまた嬉しいこともありました。途中でよく諦めなかたものだと感心しつつも、今でも課題が続いていることに厳しくも有難い思いがします。

道に終わりがないように、人生にも終わりはありません。生き方というものは死に方ですから、どのような死に方をするのかは今の生き方が決めているのですから続けていく中でどのように続けていくのかを味わっていくことが何よりも大切であろうと思います。

もちろん楽しいか苦しいかではなく、気楽になるにはそのものと一体になるという工夫がいります。事業が自分の人生とシンクロするときになってはじめて、事業は健やかに育っていくのかもしれません。

昔の格言の一つに、苦しいから逃げるのではなく、逃げるから苦しいのだという言葉があります。何かをやるときに、苦しいから何か楽な方法をと選択するよりも、苦しくてもそのまましっかりと耐え忍び何かを掴んでいこうとする姿勢でいることでその事業もまた進展するようにも思います。

事業というものもそれは同じく生き方であり、事業をどのようにしていくのかというのは自らの人生をどのようにしていくのかに似ています。いくら事業を転々と変えても、その本来の事業への姿勢は生き方なのだから生き方を変えていくことで事業もまた変わっていくのかもしれません。

イチロー選手に、「やってみて「ダメだ」とわかったことと、はじめから「ダメだ」と言われたことは、違います。」という言葉があります。これは、諦めずに首尾一貫して長期的に継続していく中ではじめて事は成るのだからという意味があるのでしょう。

誰からどういわれようが一度はじめたことを途中でやめたら得たものよりももっと大切なものを失ってしまいます。ピンチの時に継続させてくれた方がいたこと、持続するために援けて下さった方があったことで事業は継承されてきたともいえます。そしてそれは諦めなかったというご縁であり、諦めないで継続できたという御恩と感謝の結びです。

何かを続けられるということは、それ自体が自分を信じている愛の証になっているように思います。そしてその続ける中で自分が何を取捨選択していくか、続けることは基盤であり基本、人生のプラットホームなのでしょうがその面と線の形をどのように変化させるか、つまりは事業の在り方を変化させるのかは自分の信じる生き方の反映なのでしょう。

やはりどの仕事も玲瓏かつ平凡に、一点を見つめて目標をひとつひとつ改善していくほかないように思います。継続という基盤さえ育っていれば、後は時間がすべてを解決していくからです。

このように継続できることを想えばいつも事業と共に一緒に歩んでくれる人があることが有難いと心から感じます。苦しみも悲しみも辛さも、歓びも嬉しさも共に分かち合い味わうことができることが真の幸せなのでしょう。

継続できるという未来と可能性の応援をいただいていることに感謝し、日々に新たに一歩ずつ挑戦して変化を味わっていきたいと思います。

 

リバース

昨日、リバース研修を社内で実施した中で改めて発見がありました。

初心というものは伝承することであるということをいつかブログで書いたと思いますが、そもそも初心というものはいつも何度でも見直す中で甦生して活き活きと新鮮さを維持していくものです。

新しくなるというのは、古くならないということであり、神道ではそれを「常若」という言い方をしますがこれを続けていくことで当初の思いや心、そして願いや信念などを大切に思い出し続けていきましょうという意味であろうと思います。

人間というものは、心のままであった神代と違って今はほとんどのことが知識が増え頭で計算することができるようになりました。この計算というものは、現実のものを計る「物差し」ではありますがそのために真心や誠実さというものよりもどうしても自分中心に考えてしまうようになったのかもしれません。

これは日々の業務でもそうですが、頭で計算しているうちに本来は何のためだったのかということも次第に意識から薄れていくのかもしれません。そうしていると心が入りにくくなりますからそうならないようにと何度も自分自身の心で決めたままでいようと精進していくことが初心を忘れないということをより強く意識していかなければならないように思います。

これらの初心というものは、何度も何度も繰り返すことで甦ってくるように思います。これは人類の進化や歴史でも垣間見れるように何度も人間は同じ過ちを繰り返しそのつどに大切なことに気づきます。そしてまた時間の経過とともに忘れます、それを忘れないように何度も何度も伝承を怠らないようにして思い出すことでそれがないようにと伝承していくのです。

これらの伝承というものは、心の伝承のことを言います。

心に刻んだことを忘れない、言い換えれば時の流れに流されないように時を刻んでいこうとする今までの御恩に報いる生き方のことであろうと思うのです。

変化というものは、人間が人間都合が生まれてから発生した言葉なのかもしれません。人間が自分の都合を優先するからこそ、本来の自然の流れ、本質から外れしまうのです。そういう環境の中で自然から離れて人間社会というものを形成したからこそ変化し続けなくてはならなくなったように思うのです。

変化を已まないということは、自分都合を極力排除していくことのことかもしれません。そうやって理念や信念を立てたらそれに沿って何度も何度も省みることではじめて自分らしい人生、本来の社會の役割を果たしていけるのように私は思います。

伝承していくというのは、自分の生き方や生き様が子孫へ残っていくということです。自分くらいはとか自分だけはということを言ってはその影響力の大きさを忘れてしまえばそれが最も変化から外れてしまうのかもしれません。

人生の全責任を持つということや、自分の世界や子孫へ与える影響力を知ることが変化になるということのようにも思います。本来の自分を取り戻すためにも、初心を伝承し続けられるよう精進していきたいと思います。

木鶏という本当の強さ

人は目で見え結果として現れているものを信じようとすると漠然とした不安に苛まれるものです。その反対に心で観える経過が顕われてくるものを信じようとすると安心してくるものです。

だからといって心で観える世界だけかといえば現実がありますから、本来はその優先順位がどうなっているのかという確認が必用であろうと私は思います。

例えば、日々の仕事でもそうですが何を自分が優先しているのかというのは内省することにより自明してきます。日々の業務に追われていれば、目の前の業務を終わらせることが優先され本来の仕事は何だったのか、本業は何をすることであったのかということはおざなりになるのです。

そういう時には、何のために自分はこれを行うのかということを少し立ち止まり心で確認し、そこから業務に入ることで終わらせようとする気持ちよりも本質的に行おうと思うようになり、次第に丹誠を籠めて丁寧にプロセスを味わおうという仕事を楽しめるようになるのです。

忙しいというものは、自分の心の不安から本来観えていたものが観えなくなっている状態のことを言います。結果ばかりを追い求めては、遠くに探しにいくばかりで脚下の実践を大切にしなくなってしまうのです。

私は「あなたの探し物は一体何ですか?」という問いを投げかけることがあります。よくメガネをはずせば世の中がよく観えるとか、思い切って目を閉じて耳を澄ませば観えてくるとか、そういう感覚なのでしょうが本来、自分が何を優先して生きるのかというのは理念や信念によるものなのです。そういうものを忘れるくらい盲目になってしまっていては、探し物は探さなくても其処にあるのにいつまでも探し続けるのが仕事などという愚をおかしてしまうかもしれません。

心で観える世界というものは、心で観ようと思わなければ観えない世界のように思います。いくら目でそれを追ってみても何も感じず、何も分からないからです。もし理解して分かった気になったとしても本当にそれが分かったとはならないのはすぐに現場に出て観れば分かります。

心の信念がどれくらいの強さで行っているのか、心の理念がどれくらい本気であるのかは必ず相手が鏡のように自分を写してくださるからです。

子どものためにという「思い」にしても、その子どものための思いの質量はその人の「思いの強さ」によって決まるからです。どれだけの思いの日々を集積しているのか、どれだけ日々にその思いを育て醸成したかというのは、単なる業務を積み重ねる日々ではなく、本質的な志事を実践することによって行われるものです。

そしてその志事は、自分にとって困難である方、苦難である方、厳しいものである方が錬磨研鑽することができるのです。自分の方に軸足を置いて日々に働いた気になっていたとしても、それは目で追ったものを単にやり過ごしているだけになるのかもしれません。

そうではなく、常に軸足は信念、理念、もしくはお客様や子どもというように本来の志業に置くのであれば自ずから一体の境地で心身を高めていくことができるように思います。そしてそれは須らく「決心」というもので始まり「覚悟」というもので終わります。

今の世の中は、目に見えるものばかりが価値があるかのような錯覚を与える刷り込みと誘惑の世界です。そういう中でももっていかれない「本当の強さ」を持てるようになることが「木鶏」なのかもしれません。

そしてそれは出来事や事件といった体験といったご縁の一つ一つを大切に実感し学習し、改めて善いものへと見直すことによって改心されていくものです。

本当の強さを持てるようになるためにも、常に理念から実践し思いを醸成し精進していこうと思います。

本物の個性

よく勘違いされるものに個性と習慣というものがあります。

自分はこういう人間だからと最初から決めつけ向いているとか向いていないとか自分で判断してしまうことを個性だという人もいます。しかしよく考えてみると分かりますが、それらの個性というものは産まれてから何らかの努力した習慣によって手に入れたものが多いのです。

例えば、自分は営業向きではないとか、自分は学者向きとか、最初から先入観を持ってしまい挑戦しようとしない人がいるとします。私も昔は、自分では営業は向いていないとか経理はできないとか、経営者タイプではないとか自分なりに思い込んでいたものです。

しかしそれはそれまでの自分の習慣がそれまでの自分の個性のようなものを固定していただけで新しい行動と習慣がつけばそれまでの自分とはまったく異なる新しい自分を発見することができたのです。

人間は結局は自分自身の先入観に打ち克てるかどうかということで自分を創りあげていくのかもしれません。自分の限界というものを決めているのも自分自身ということなのでしょう。

論語に、「子曰く、性は相近きなり、習いは相遠きなり」という言葉があります。

つまりは、人は生まれたときはほとんど変わらないけれど、その後の習慣でまったく違う人物の差にになってしまうという意味で用いられます。ほとんど人間には実は違いがなく、どのような教育を受けてきたか、そしてどのような習慣を身に着けてきたかでその人生はまったく別物になってしまうということでしょう。

よくこれを個性だと決めつけるのは、学校で教え込まれた間違った個性です。学校というものは、その人がよく言うことを聞き、学校の思い描く社会に適応する人物を育てようとします。しかし実際の社会に出て観ればそれでは実学ではなく実用にならないのだから、当然、社会に出たらその社会での習慣が必要になります。

如何に学校で身に着けた習慣が十何年あったにせよ、それを個性だと決めつけずに新しい自分、その社会で生き残るために新しい習慣を身に着けていく必要があるのです。

学校から社会人になるときに、何を捨てさせるのかといえばそれまでの習慣のことを言うのです。それまでも習慣を捨てるには、今までの習慣を凌駕するようなまったく異なる中らな習慣を育てていく必要があります。

私が現在行っている朝練も同じく、これは今までの生き方、それまで自分が判断してきた基準を超える経験、つまりはその心身の習慣を身に着けるために実施しているのです。何度も何度も新たな習慣を身に着けるには場数が必用で、その期間は苦労するものですが新たな習慣が立てば新しい個性もまた身に着きます。

これらの基になるこの「性」というものは、天性のことです。天性とは人間そのものは等しく天地自然の顕現としての存在という意味でしょう、つまりは元の人間は神人合一、天人合一という意味です。習いとは、その後の学問のことで実学の人か妄学の人かということです。

意識改革というものは、これらの習慣にメスを入れることをいいます。自分では気づいていもない習慣をそのままにしておけば一生涯それを個性だと勘違いしてそのままになってしまうのも、その人のご縁や運によるものと思います。誰にも指摘されないまま自分の個性だと勘違いして努力を見誤れば裸の王様のようになってしまうかもしれません。これは本当に恐ろしいことです。

だからこそ素直に生きていくということは、自分の気づいてもいないような思考の癖や習慣を指摘してもらう自分でいることのように思います。そのために正直に伝えてくださる指導者が身近にいたり、同志、師友の存在は本当に有難いことのように思います。そしてそれもまた自分の決めた生き方、真摯に成長を選んでいるか、真剣に伸びようとしているか、求める自分があってこそのものでしょう。

心を開き新しい自分に出会うことで個性はより本物の個性になっていきます。

悪しき習慣を転じて善き習慣とするように、新たな習慣を身に着けるために温故知新、御指導いただくままに今年は様々な習慣を具体的に変えていきます。

プロセスの手入れ

今年のテーマである途中を大事にということを考えているとプロセスの価値を再認識します。

そもそも物質や物体だけではなく、時の流れも宇宙の運行もすべてはプロセスが集積して循環を続けているものです。

例えば、水が流れて川になり、それが池になり、海になり、雲になり雨になり空気になる。これらもすべて変化というプロセスになっただけということです。そしてこれは出来事でも同じです。毎日に様々な出来事が発生し、その都度新しい変化に出会っていますがこれもまたプロセスが発生しているだけともいえます。

つい現代社会では目標や目的というゴールに達成することだけを目指しますが、そのゴールは本当にゴールなのかといえばそうではありません。なぜならそのゴールの先にはまた次のゴールが待っているからです。つまりゴールは終わらない、ゴールなどないということなのです。

ゴールがないのならばあるのは当然プロセスということになります。それが生き方や生きざまと呼ぶものですが、言い換えればどのようなプロセスを活きているかということです。

間という考え方は、つながりであり結びであり中庸であり本質でもあります。

この中間を捉えるというのはプロセスを玩味しているということに他なりません。如何に一つ一つの出来事の意味を大切に学び、そのものその経過を粗末にしないということ。それは結果さえよければいいという発想ではなく経過にどれだけ丹誠を籠めているかということになるのです。

本来、結果というものはプロセスや経過で籠めた真心が顕現してでてきただけのものです。それは育児でも然り、仕事でも然り、思想でも然りです。それらの顕現してくるものは、どれだけ結果だけを追わずに丁寧に手を入れていくかということだろうと思うのです。

それは言い換えれば四六時中であったり、心を離さないことであったり、継続して実践するということでもあろうと思います。

実践がなぜ大切なのかというのは、これらの結果を追うのではなくプロセスそのものに意義があるという意識を自分が持てるようになるために必要なのです。思っても行動できなくなるのは、結果から考えるという学校教育で刷り込まれた一問一答的な発想の刷り込みが抜けないということなのでしょう。

知識がちょっと多いことが凄いことだと勘違いして本来、考えないといけない当たり前のことを考えることを拒絶し、知っている世界だけがすべてだと思い込まされることによってこれらの自然であったこと、自然とはプロセスであることすら分からなくなってしまうのでしょう。

丁寧に生きるというのは、活かされている幸せを実感するときに得られるように思います。
忙しさという言い訳に負けないように心を強く魂を磨き修身していこうと思います。

人間都合の罠

人は物事を判断するときのモノサシとして自分にとって有益か有害かというものを見ます。

例えば、先日からの植物を例にすれば現在名前がつけられている植物だけで35万種あるといいます。まだ名前がつけられていないものも沢山あるのですが、その中で勝手な話ですが人間にとって有益だとしているのが大体3千種だと言われています。

おかしな話ですが、西洋から渡来した農業方針では34万7千種の植物は有害、もしくは無益とされ、農薬をはじめ除草剤、もしくは抹殺の対象となっています。そのためには、強烈な除草剤の開発を続け、それらの草を抑制するために様々な道具が日夜開発されています。

植物でこうなのですから虫や鳥などとなると、ほとんどが有害か無益と考えられ人間に都合がよい野菜以外はすべて排除するという考え方です。アメリカの大規模農園の映像をテレビで拝見しましたが、セスナで農薬を散布し、自分の育てている野菜以外はすべて排除の対象である姿を見て背筋が凍る思いをしたことを覚えています。

それでは人間に有益と呼ばれる種は今どうなっているかといえば単に過保護にされるだけではなく過干渉に種を操作し、F1と呼ばれ遺伝子をいじられたり余計に交配させられ、より沢山、より便利に収穫できるように改造されていきます。現在ではその有益とも呼んでいる種も固定種のものはほとんどがなくなり、ビニールハウスの中で24時間光をあてられ、肥料や栄養をどんどん詰め込まれ、より速くより大きくなるように仕込み収穫され、種もなくあったとしても種も改造され自らで子孫を残せないような種にさせられ販売している始末です。

よく考えなくてもどれだけ今、不自然でおかしなことが起きているのかが誰でも分かるようなことを見過ごされては身近な社会の極端な報道ばかりで全体が目くらましをあっているというのが私達とも言えるのです。

本来、人間都合というものはこの考え方に共通します。人間は自分の都合で世の中をみるのだから、見たくないものはみないというのもまたこの考えに添っています。直視するということができるのは人間都合、自分都合のメガネを取り払うときにできるからです。

もしこれら植物で起きていることが人間で行われていたらと考えれば現在の社会の構図が観えてくるともいえます。将来、この人間都合の考え方は倫理の壁もいよいよ超えて植物で起きていることを人間そのもので行われる可能性も決してないとはいえません。

それではどうすればいいのかということなのです。

自然農を実践していく中で、本来の人間都合というものがどれだけ危険な思想なのかというのを考えると同時に、如何に自分たちが実践していくことで自らが自然の謙虚さを学ぶのかといううことが肝要なのではないかと私は思います。

そういう私も都会に住み、現在の社会の中にいるのですから今の文明そのものを否定するのではなく、生き方として優先するものを何にするか、、都合という我慢や我欲をよく見つめ、自然界から生き活かし合う姿を学び、それらの自然を優先しつつその中でもって今を創意工夫していきながら本来の人間というものの在り方を一緒に学び続けていこうという先人たちの智慧の再発見を行うことだと思います。

祖先は皆、今の私達よりも多くの体験をしてそれを受け継いできました。私たちの100年ほどの価値観など、祖先の数千年、いや数億年の篩にかけられたものには決して敵いません。だからこそ祖神の声をよく聴いて、よく観て、よく真似ていくことが子々孫々の繁栄にかかせないように思えます。消えかけていますが探せばまだ沢山の智慧がこの国にも世界にも伝承されています。

最後に人類にとっての本当の危険とは、この人間都合の罠のことなのです。

本能が減退している現代だからこそ、本質を掴みとるために実践し、精進を続け、もう一度ゼロベースで自然から学び直していきたいと思います。

 

野に降る

自然を考えている中で、この今の自然が如何に人間の都合によって塗り替えられているのかを気づけます。

そもそも人間にとって都合のよい植物と都合の悪い植物で扱い方が天と地との差があります。野菜は人間が食べるものだから大切に育てますが、それ以外は雑草という呼び名でいつも嫌われています。

うちの畑でも最初に最も嫌悪されたのが雑草で、雑草の種が飛んでくるから草をすぐに刈ってほしいと遠巻きに言われたりもしました。草を敵にしない農法といくら説明しても、それが理解されるわけでもなく色々な農業事情のこともあり見た目のところが悪くならない程度に草を刈るようにはしています。

しかし、春から夏になれば雑草を中心に群がった虫たちの大合唱が楽しくて野菜も雑草も分け隔てなく食べている虫たちが元気な姿に畑の楽しさを実感して草もなかなか刈れなくなります。

都会で生活していると、虫がいません。ごくたまにベランダの花壇に飛来してくる蜂や蜘蛛、トンボなどを見ると本当に嬉しい気持ちになります。身近に虫がいないということがない田舎育ちのせいか、植物もない虫もない鳥の声もしないという中にいることは本当に淋しく感じます。

昨晩も帰路につく最中、道端の雑草をみながら都会にも逞しくいのちをつなぐ姿に都会暮らしの中で自然を追及する自分の姿を映していました。なぜわざわざ自分は新宿のど真ん中で自然を観直に自然を学ぶのかと考えると、雑草のように生きようとしている自分が此処に居ることに自明するのです。

この雑草とは何かといえば、かつてエマーソンがこう定義しています。

「雑草とは何か?それはその美点がまだ発見されていない植物である。」と。

それをファン・デグォン氏は雑草ではなく、私は野草と呼ぶと定義しました。私もまったく同感で、野菜と雑草ではなく、野草であり野菜なのだというように考えています。道端の小さな虫たちも鳥たちも植物たちもみんな自然の一部。

その一部としての自然をどのように価値を見出すかはその人次第です。

だからこそ、自分の生き方を改め、本来価値があるものをもう一度再発見しなければならないように思うのです。今の世の中は、すぐに人間都合の歪んだ価値観でそのものの価値を定めようとします。しかし本当にそれが価値なのかと言えば、それは誰かによって意図的に生み出された人工的な価値であることには間違いありません。

この世でもっとも価値があるのは、すべて自然や天や神様が生み出したと私たちが謙虚であるときに観ているものではないかと思います。御蔭様然り、勿体ない然り、有難い然り、すべては私たちの想像を超えた美しさを永遠に放ちつづける自然の中にこそあるのです。

もう一度、野に下っていくところから人間は学び直した方がいいのかもしれません。今のような文明の過渡期に、価値の大転換をどのようにやってのけるのか、それは自然が味方になってくださるのだから自然の観方から転じていくことなのではないかと私は思います。

子どもたちには自然の価値は自然のままに観えています。だからこそ、子どもたちと共に自然から学び、自然に学び直す実践を続けていきたいと思います。その実践がいつの日か必ず人工的な価値観よりも優先されるようになり、最期には地上のバランスを人間が保てるように調和することにつながると信じます。

この世にはもっとも当たり前だと思っているものが何よりも当たり前ではない尊さと輝きを持っていることを決して忘れてはいけません。自然の価値に抱かれて活かされる幸せを謳歌していきたいと思います。

越冬

朝の霜が降りるような大変寒い季節に入り、虫をめっきり見かけなくなったと思っていたら昨日、畑の草刈りをしていてバッタやてんとう虫を見かけました。

虫は変温動物のため、冬の間はあまり動けません。それに餌もなく、それぞれに寒さを凌ぐ智慧を持って越冬します。

例えば、成虫のままの虫では落ち葉の下に隠れたり、腐った木の中にもぐったり、土の中に入り空洞をつくり篭ったり、ありとあらゆるところに隠れては寒さを凌ぎます。

その他には、卵になって殻に守られた中で隠れたり、マイナス20度の中でも、凍らない体液で蛹のままに越冬する虫もいますから冬で死んでしまったわけではなく隠れているのです。

そして春になり、草花や虫たちが活動しだす頃に越冬した虫たちが外界で活躍を再開しだすのです。

その他、冬の草を食べている虫たちもいますし動物たちもいます。畑では、葉っぱには虫食いの痕がたくさん残っていますし、大根などは野ウサギに食べられ、土の中の幼虫はイノシシが食べています。

思い込みで虫や動物を見かけなくなりますが、いなくなったのではなく寒さを凌ぐために隠れて越冬しているのです。

そう考えてみると、冬の間じっとこらえて耐えて忍び春を待つ姿に自然の中にある当たり前の姿を体験します。私達人間は、冬でも春でも夏でも空調設備が整い、食べ物も豊富にある中で暮らしていますからあの虫たちのように必死に越冬する姿はありません。

しかし本来は、冬というものは寒さを凌ぎ耐え忍び春を待つことが自然なのです。厳しい寒い冬があり、暖かな春がある、厳しい暑さの夏があり、穏やかな秋がある。こういう四季の廻りを虫たちや動植物たちがどのように過ごしているかでその智慧を見直せるのです。

敢えて自然に逆らわずに、仮死状態になったりして冬を超える自然順応の姿には学び直せるものがたくさんあります。まだまだ冬の動植物から学べることがたくさんありそうです。

昨日は、てんとう虫やバッタが一生懸命に越冬している姿に頑張って乗り越えてほしいと心から応援したい気持ちが湧いてきました。すべての生きものが一緒に冬を越していきたいと感じたのは、冬の寒さと美しさが引きたててくれるのかもしれません。

木々や土、光も水も、生き物を遺すためにみんな協力しているようにも感じます。いないと思っていたものがいること、ないと思っていたものがあることほど豊かなことはありません。有難うございます。

種に学ぶ

自然農を実践し、畑の種を観察していると色々と発見があります。

一昨年の冬に元気に育った大根をそのままに花を咲かせましたが、そこから自然に新しい今年の大根が生えてきました。それを観ていると、梅雨時期のたくさんの雨や夏の鬱蒼とした草たちや虫たち、多数の種たちの中でよくぞ此処で生えてきたものだと感慨深くなりました。

種というのは、不思議なもので自分が出てくるタイミングを自覚しているように思えます。それは季節だけではなく、今が自分の出るときだと知っているような感覚ではないかと私には思えるのです。

沢山の種がそれだけ長い時間、待っていることができるということに感動するのです。

土の中では、その他、何年も何年も掘り起こされるまで眠っている種もあります。自分が生育できる環境が顕われるまでタイミングをじっと待っているのです。時には、季節外れに生えてしまったり、時には、環境が悪化しているときに出てしまったり、他の種が先に芽吹けばそのまま種のままで居続けたり、そしてそれもまた自分の出番であり、自らの御役目を謙虚に受け容れ、種の維持、子孫として自らが道を切り開いているのです。

植物や虫たちは、種の保存、種(シュ)というひとまとまりで生きています。だからこそ、そのひとまとまりが自分そのものでありその種(シュ)を遺すために皆で協力して自分を生き切るのです。

この自分とは役割であるということが、ここから悟れるのです。

一見、評価の世界で生きていたら無駄死にではないかとか、犠牲になったとか、いろいろと論じますが本来は、そのひとまとまりでいのちであり、ひとまとまりで生き残っているのが私達です。

つまり違いもなく、自他もなく、みんなで役割を持ち生き切ることで一つのいのちであるということです。これは菌類も同じで、みんなで種を遺そうと協力し合い深い絆の中で共に活かし合い助け合い未来そのものになるのです。

種ということから自然の全容が顕現してきます。

もっと大きく、もっと全体で、もっと役割というところから自分を見つめていきたいと思います。
種に見習い、生き方から見直していきたいと思います。