野に降る

自然を考えている中で、この今の自然が如何に人間の都合によって塗り替えられているのかを気づけます。

そもそも人間にとって都合のよい植物と都合の悪い植物で扱い方が天と地との差があります。野菜は人間が食べるものだから大切に育てますが、それ以外は雑草という呼び名でいつも嫌われています。

うちの畑でも最初に最も嫌悪されたのが雑草で、雑草の種が飛んでくるから草をすぐに刈ってほしいと遠巻きに言われたりもしました。草を敵にしない農法といくら説明しても、それが理解されるわけでもなく色々な農業事情のこともあり見た目のところが悪くならない程度に草を刈るようにはしています。

しかし、春から夏になれば雑草を中心に群がった虫たちの大合唱が楽しくて野菜も雑草も分け隔てなく食べている虫たちが元気な姿に畑の楽しさを実感して草もなかなか刈れなくなります。

都会で生活していると、虫がいません。ごくたまにベランダの花壇に飛来してくる蜂や蜘蛛、トンボなどを見ると本当に嬉しい気持ちになります。身近に虫がいないということがない田舎育ちのせいか、植物もない虫もない鳥の声もしないという中にいることは本当に淋しく感じます。

昨晩も帰路につく最中、道端の雑草をみながら都会にも逞しくいのちをつなぐ姿に都会暮らしの中で自然を追及する自分の姿を映していました。なぜわざわざ自分は新宿のど真ん中で自然を観直に自然を学ぶのかと考えると、雑草のように生きようとしている自分が此処に居ることに自明するのです。

この雑草とは何かといえば、かつてエマーソンがこう定義しています。

「雑草とは何か?それはその美点がまだ発見されていない植物である。」と。

それをファン・デグォン氏は雑草ではなく、私は野草と呼ぶと定義しました。私もまったく同感で、野菜と雑草ではなく、野草であり野菜なのだというように考えています。道端の小さな虫たちも鳥たちも植物たちもみんな自然の一部。

その一部としての自然をどのように価値を見出すかはその人次第です。

だからこそ、自分の生き方を改め、本来価値があるものをもう一度再発見しなければならないように思うのです。今の世の中は、すぐに人間都合の歪んだ価値観でそのものの価値を定めようとします。しかし本当にそれが価値なのかと言えば、それは誰かによって意図的に生み出された人工的な価値であることには間違いありません。

この世でもっとも価値があるのは、すべて自然や天や神様が生み出したと私たちが謙虚であるときに観ているものではないかと思います。御蔭様然り、勿体ない然り、有難い然り、すべては私たちの想像を超えた美しさを永遠に放ちつづける自然の中にこそあるのです。

もう一度、野に下っていくところから人間は学び直した方がいいのかもしれません。今のような文明の過渡期に、価値の大転換をどのようにやってのけるのか、それは自然が味方になってくださるのだから自然の観方から転じていくことなのではないかと私は思います。

子どもたちには自然の価値は自然のままに観えています。だからこそ、子どもたちと共に自然から学び、自然に学び直す実践を続けていきたいと思います。その実践がいつの日か必ず人工的な価値観よりも優先されるようになり、最期には地上のバランスを人間が保てるように調和することにつながると信じます。

この世にはもっとも当たり前だと思っているものが何よりも当たり前ではない尊さと輝きを持っていることを決して忘れてはいけません。自然の価値に抱かれて活かされる幸せを謳歌していきたいと思います。