人間都合の罠

人は物事を判断するときのモノサシとして自分にとって有益か有害かというものを見ます。

例えば、先日からの植物を例にすれば現在名前がつけられている植物だけで35万種あるといいます。まだ名前がつけられていないものも沢山あるのですが、その中で勝手な話ですが人間にとって有益だとしているのが大体3千種だと言われています。

おかしな話ですが、西洋から渡来した農業方針では34万7千種の植物は有害、もしくは無益とされ、農薬をはじめ除草剤、もしくは抹殺の対象となっています。そのためには、強烈な除草剤の開発を続け、それらの草を抑制するために様々な道具が日夜開発されています。

植物でこうなのですから虫や鳥などとなると、ほとんどが有害か無益と考えられ人間に都合がよい野菜以外はすべて排除するという考え方です。アメリカの大規模農園の映像をテレビで拝見しましたが、セスナで農薬を散布し、自分の育てている野菜以外はすべて排除の対象である姿を見て背筋が凍る思いをしたことを覚えています。

それでは人間に有益と呼ばれる種は今どうなっているかといえば単に過保護にされるだけではなく過干渉に種を操作し、F1と呼ばれ遺伝子をいじられたり余計に交配させられ、より沢山、より便利に収穫できるように改造されていきます。現在ではその有益とも呼んでいる種も固定種のものはほとんどがなくなり、ビニールハウスの中で24時間光をあてられ、肥料や栄養をどんどん詰め込まれ、より速くより大きくなるように仕込み収穫され、種もなくあったとしても種も改造され自らで子孫を残せないような種にさせられ販売している始末です。

よく考えなくてもどれだけ今、不自然でおかしなことが起きているのかが誰でも分かるようなことを見過ごされては身近な社会の極端な報道ばかりで全体が目くらましをあっているというのが私達とも言えるのです。

本来、人間都合というものはこの考え方に共通します。人間は自分の都合で世の中をみるのだから、見たくないものはみないというのもまたこの考えに添っています。直視するということができるのは人間都合、自分都合のメガネを取り払うときにできるからです。

もしこれら植物で起きていることが人間で行われていたらと考えれば現在の社会の構図が観えてくるともいえます。将来、この人間都合の考え方は倫理の壁もいよいよ超えて植物で起きていることを人間そのもので行われる可能性も決してないとはいえません。

それではどうすればいいのかということなのです。

自然農を実践していく中で、本来の人間都合というものがどれだけ危険な思想なのかというのを考えると同時に、如何に自分たちが実践していくことで自らが自然の謙虚さを学ぶのかといううことが肝要なのではないかと私は思います。

そういう私も都会に住み、現在の社会の中にいるのですから今の文明そのものを否定するのではなく、生き方として優先するものを何にするか、、都合という我慢や我欲をよく見つめ、自然界から生き活かし合う姿を学び、それらの自然を優先しつつその中でもって今を創意工夫していきながら本来の人間というものの在り方を一緒に学び続けていこうという先人たちの智慧の再発見を行うことだと思います。

祖先は皆、今の私達よりも多くの体験をしてそれを受け継いできました。私たちの100年ほどの価値観など、祖先の数千年、いや数億年の篩にかけられたものには決して敵いません。だからこそ祖神の声をよく聴いて、よく観て、よく真似ていくことが子々孫々の繁栄にかかせないように思えます。消えかけていますが探せばまだ沢山の智慧がこの国にも世界にも伝承されています。

最後に人類にとっての本当の危険とは、この人間都合の罠のことなのです。

本能が減退している現代だからこそ、本質を掴みとるために実践し、精進を続け、もう一度ゼロベースで自然から学び直していきたいと思います。