人は目で見え結果として現れているものを信じようとすると漠然とした不安に苛まれるものです。その反対に心で観える経過が顕われてくるものを信じようとすると安心してくるものです。
だからといって心で観える世界だけかといえば現実がありますから、本来はその優先順位がどうなっているのかという確認が必用であろうと私は思います。
例えば、日々の仕事でもそうですが何を自分が優先しているのかというのは内省することにより自明してきます。日々の業務に追われていれば、目の前の業務を終わらせることが優先され本来の仕事は何だったのか、本業は何をすることであったのかということはおざなりになるのです。
そういう時には、何のために自分はこれを行うのかということを少し立ち止まり心で確認し、そこから業務に入ることで終わらせようとする気持ちよりも本質的に行おうと思うようになり、次第に丹誠を籠めて丁寧にプロセスを味わおうという仕事を楽しめるようになるのです。
忙しいというものは、自分の心の不安から本来観えていたものが観えなくなっている状態のことを言います。結果ばかりを追い求めては、遠くに探しにいくばかりで脚下の実践を大切にしなくなってしまうのです。
私は「あなたの探し物は一体何ですか?」という問いを投げかけることがあります。よくメガネをはずせば世の中がよく観えるとか、思い切って目を閉じて耳を澄ませば観えてくるとか、そういう感覚なのでしょうが本来、自分が何を優先して生きるのかというのは理念や信念によるものなのです。そういうものを忘れるくらい盲目になってしまっていては、探し物は探さなくても其処にあるのにいつまでも探し続けるのが仕事などという愚をおかしてしまうかもしれません。
心で観える世界というものは、心で観ようと思わなければ観えない世界のように思います。いくら目でそれを追ってみても何も感じず、何も分からないからです。もし理解して分かった気になったとしても本当にそれが分かったとはならないのはすぐに現場に出て観れば分かります。
心の信念がどれくらいの強さで行っているのか、心の理念がどれくらい本気であるのかは必ず相手が鏡のように自分を写してくださるからです。
子どものためにという「思い」にしても、その子どものための思いの質量はその人の「思いの強さ」によって決まるからです。どれだけの思いの日々を集積しているのか、どれだけ日々にその思いを育て醸成したかというのは、単なる業務を積み重ねる日々ではなく、本質的な志事を実践することによって行われるものです。
そしてその志事は、自分にとって困難である方、苦難である方、厳しいものである方が錬磨研鑽することができるのです。自分の方に軸足を置いて日々に働いた気になっていたとしても、それは目で追ったものを単にやり過ごしているだけになるのかもしれません。
そうではなく、常に軸足は信念、理念、もしくはお客様や子どもというように本来の志業に置くのであれば自ずから一体の境地で心身を高めていくことができるように思います。そしてそれは須らく「決心」というもので始まり「覚悟」というもので終わります。
今の世の中は、目に見えるものばかりが価値があるかのような錯覚を与える刷り込みと誘惑の世界です。そういう中でももっていかれない「本当の強さ」を持てるようになることが「木鶏」なのかもしれません。
そしてそれは出来事や事件といった体験といったご縁の一つ一つを大切に実感し学習し、改めて善いものへと見直すことによって改心されていくものです。
本当の強さを持てるようになるためにも、常に理念から実践し思いを醸成し精進していこうと思います。