昨日、式年遷宮後の伊勢神宮を参拝するご縁がありました。
現在では、旧くなったお社の横に出来たばかりの新しいお社が建っています。その両方を同時に拝見できるというのは、有難いことのように思います。
そもそも神道には「常若」という思想があり、式年遷宮は「常に若々しく永遠に滅びない」という仕組みで甦生を繰り返します。
これは大切なものを大切なままにいつまでも永遠の真価を発揮し続けるという「いのち」の理を顕現させているように感じます。
いのちというものも等しく、その永遠の価値を持ちます。いくら生死が廻ったにせよ、その風土、その時空には目には観えなくても確かにいのちの廻りは永劫しています。それを実感するために神道では古びれても新しいままといった「旧くならない実践」を続けているように思います。それがかんながらの道の一つでもあります。
そもそも人間には直観的に知覚できる本能というものが備わっています。そこには、目では見ていないものを観ていますし、鼻や耳、舌などをつかって本能が天地の道理を嗅ぎ分け聴き分け、玩味するというように表面上の感受ではなく、真相の感受のような自然の直観力で全体を容受するのです。
これは代謝でも同じですが、考えなくても脈動や鼓動、循環、浸透、伝導などを続けるように本能は常に私たちの心身体を活かし続けます。ここにも神体としての私たちの本能が已まずに甦生を続けている証です。
この甦生という仕組みを通して、何を遺しているのか、何を復刻し続けているのかを実感するのが本能の容受です。これは自分たちの中にある初心をいつも忘れないことやかつての私たちの姿を伝承することなどが秘められている仕組みなのです。
例えば御蔭様という意味一つであっても、今の私たちが存在するのはどういう祖神の徳恵の中であるのかもまた式年遷宮を通して実感できるものです。目に見えるものは、次第に形を崩していきますが目には観えない大切なものはいつまでも変わらないということは、今生きている人たちの真の生き方の初心を省みることで直観するのです。
メッセージとして、神代から続いているものを私たちが新しくするのだという覚悟です。
私たちの「いのち」は神代から先祖伝来、子々孫々までそれを維持するのに肉体は何度も甦生を続けてはこの世に止まっています。そして私達は決して古びれても古びれない、いつまでも新しい時代を新しくしていくのは私たちの使命なのだという決意を覚えてはいのちの輝きを保ち続けたのでしょう。
そもそも永遠とはいのちなのです。
参拝をしていると、次第に夕暮れ、そして月や星が瞬いていました。
あの星々のように、宇宙の中で永遠の光を放つ私たちの「いのち」と同化していたいものです。いろいろと人間は自然から離れて、考えすぎて不完全燃焼になったのでしょうが常に「いのち」に立脚して完全燃焼を続けて甦りを続けていきたいと思います。
今年は甦生と関連が深く、そういうお仕事とのご縁をいただいています。伝承の大切さ、いのちを伸ばす仕組み、そういったものを現場のお仕事で実感しつつ直観し、常学常問を実践していきたいと思います。
式年遷宮とのご縁と邂逅の御蔭様で自分自身の感覚も温故知新できました。「いのち」余すところなく存分に発揮していきたいと思います。