大量生産大量消費ということについて考えることがあります。
そもそも何かを大量に生産し大量を消費するというのは、大量に消費しなければならないから大量に生産しなければならないのです。こうやって消費を常に優先すれば、消費が目的ですから消費するための量が必要になるのです。実はこういうところからもゴミという考え方が広がっていくともいえます。
そして、大量にしようと思ったら何をするかといえば例えば時間を短縮し、画一的にし、早くそのものをつくり、そして水増しするというような発想になります。その中身はどうであれ、見た目だけの量を増やしていくということに価値が置かれれば多くの無駄やムラがこれからも生まれてくるのです。
それとは別に質になってくれば、例えば時間をじっくりとかけたり、そのものの特性を大事にしたり、一つ一つを精査していくというような発想になっていきます。これはそのものの価値を上げていくということに力を入れていくことに似ています。
本来は、質と量があり、どちらかだけに偏るのではなくその両方を両輪として取り組むことが大事なのでしょうが今の時代はどうしても偏り過ぎているようにも思います。それは今の経済のあり方が沢山売れば売るほど儲かるという発想がモノサシになっている社会だからかもしれません。
昨日もお米の話をしながら思うことがありましたが、本来は少量で八十八の手間暇かけて育て作っていたお米が色々な工程を排除し機械や農薬で一気につくり出来高量を水増しできても、そのお米本来の美味しさというものは変わってくるということ、それにそうやって水増ししたことで結局はお米の価格が下落し結果的に苦しくなってしまうということです。
これらの水増し貧乏というのは、本来の価値を下げた自分がいたということになるのです。本来の価値とは何かと言えば、正しく時間をかけ正しい量を行い、質量ともに正直に取り組んでいくことではないかと私は思います。
いくら要領よく量を調整しても質が変わりますし、質を高めようと思ったらある程度の量の体験が必要なのです。これは仕事も同じですが、いくら頭で思っても量を実践しそこで身に着くまで徹底して行うことで質もそれに相応しい実力が備わってくるのと同じです。
量で質が下がったのを誤魔化すという発想が本来の価値の質量を歪ませたのです。
大事なのは、正直に取り組むことですが今の時代は大量生産大量消費の世の中ですからそれを維持するには周囲の誘惑に負けずに質を高める精進、工夫やアイデアといった努力が求められるのでしょう。
常に質を高めていくことで正しい価値を持てる人たちになってきます。そして量を適正にすることでその価値は認められる高さを維持していけます。世の中の見た目の裕福さに刷り込まれないように、正直な裕福さ、真の豊かさに気づいているままに自分を練り上げていきたいと思います。