独善と満善~聴聞認識の実践~

独善的という言葉があります。

これは独り善がりという言い方での解釈をされていますが、自分だけが正しいと勘違いしてしまうことを今の世の中では言うように思います。本来は、孟子(盡心上)の中で使われた言葉ですが昔と今ではその漢字の意味も異なってしまうものです。

本来の独善とは、孟子は「幸いにして権力をもつ地位についている人は皆に善いことをするよう勧めよ、一方、志が満たされず権力と無縁の状況に置かれた人は「独りで善いことをしなさい」と説きました。

これは誰も見ていようが見ていまいが、天が観ているのだから独り慎み独りでも善を行いなさいという意味で用いられたということです。陰徳のようなものであり、これは見返りを求めない天の恩徳と等しい実践を行うことを述べているように私は思います。

しかし実際の世の中で今使われる独善というものは、自分だけが正しいと思い込んでいるものです。これは他人との違いを認めないところから発生してくるように思います。

この独善に陥るのはなぜかといえば、相手の立場で物事を考えることができなくなるからです。人は自分が考えたことが正しいと思い込んでしまうものです、それは自分の価値基準で物事を査定し、自分の判断基準で事物を認識するようにできているからです。

自分が見た世界からみればそれは間違っていないと思うことでも、相手の世界からみたら間違っているということが分からなくなるのです。例えば、この独善に陥りやすいのは組織で言えばトップであり、社會でいえば人間社会を管理する立場の人たちのように思います。

これが起きる原因は何かといえば、「現状認識のズレ」によります。

現状が歪むのは、そこに自我や自分の価値観が入り混じるからであり人はそれを他と共有することがなくなってくると正しいことばかりを優先するようになってしまいます。例えば現状とは、トップと現場の現実感覚の差であったり、行政と現場の現実感覚の差であったり、それは何処にでも発生しています。

ただ困るのが、悪気がない中で現場のためになんとかしてあげようといくら思っていてもそれが正論であっても、現状認識がズレて現場とギャップが開いていたらいくらそれが善い案であっても現場では使えるものにはなりません。また逆にいくら現場が善いと思っても、それがトップの現状認識とズレてギャップが開いたらそれもまた現実には活かすことはできません。

常にお互いにそのギャップが開かないように互いを確認することが組織において何よりも重要であると私は思っています。

独善に陥るというのは、それぞれが自分の思い込みを優先して現状認識からズレたということです。言い換えれば、御互いの現状認識に差があり過ぎるということです。これを常に修正し取り除いたときにこそ、「価値観の共有」が実現し、独善ではなく満善ということになるように思います。

正しくありたいのであれば、自分が正しいというよりも全体で正しいということがまず優先されること、その上で現状認識が歪まないようにと常に修正し続けることだと思います。

独善ではなく満善を、そしてそれぞれが現状認識を持った中での「最善至善」を大切にしていけば自ずから協力する風土は確立できると思います。なぜならそこに寛容と思いやりの関係が築けるからです。

自分自身が現状認識からズレないように、常に独り善がりにならないように留意して日ごろの聴聞認識の実践を続けていきたいと思います。