固定概念

人間には誰しも固定概念というものがあります。

そのものの本質を自ら考えるのではなく、誰かが何かをいっていたからと鵜呑みにしたり、流行や何らかの情報をそのままに思い込んで受け入れてしまったらそれが固定概念になるのです。

人は考えるのをやめることで、物事を単純類似化し画一的にしようとしてしまうものです。分類を分けることで、自分の中で整理するのは脳が行うのでしょうが本来は複雑なもので渾然一体となったものを分けて考えはじめたことから物事の本質が観えなくなっていくのでしょう。

しかも世の中には類似したものから取り組むということで、分業し技能を分けていきますからその技能からものをみたら分かれていない方が怪しいとか不可解に見えてしまうのです。

その最たるものが決めつけというものであり、きっとこうだろうとよくも考えず自分の固定概念に周りを合わせさせようとしてしまうところに失敗もまたあるように思います。沁み付いた固定概念を取り除くには、向き合って受け止めてもう一度ゼロベースで本質から考え直すプロセスを通過することが大切なように思います。

しかし実際は、同時に自分の中の感情が揺れ動き結果を先に思い込んで決めつけているからこそなかなかそれを覆すことができません。きっとこうだとか、きっとああだとか最初に分かった気になってしまっているからこそ自分の世界を変えていくことができないのです。自分の世界が変わらないということは、実際の世界も変わらないということですから同じところをループするだけになってしまうのです。

このループを抜け出すには、分かった気にならず勇気を出してやってみる、そしてそれを本質に照らしてフィードバックすることがあることで少しずつ抜け出せるように思います。

その本質が何かというのが理念でもあります。

理念は決して外罰的なものや外責的、もしくは外省的に誰かに押し付けるものではなく本来は内省的なものなのです。つまりは理念は自ら省みるものであってそれは本質に帰すのは自分自身であって自分以外の周りを本質にするわけではないということです。自分が正しい相手は間違っているというのも固定概念です。

本来の目的を忘れないようにすることで自分の固定概念というものの縛りを抜け出せるように思います。だからこそ何度も何度も日々に省みるものを持てるかどうかは本質的に生きる上においてとても重要ではないかと思います。

言われたことを盲信しただやるだけのステレオタイプになってしまえば、その時点で自分の固定概念の中でのみ生きてしまうことになります。如何に自分を通すときにそれを本物にするかは個々人各自が実践において行わないといけないものです。それが自分の人生だからにほかなりません。

これらの刷り込みを乗り越える先に、目指した本当の理想が存在します。生き方を貫くというのはなかなかすぐには理解されませんが、社業を洗練しより高度な技術を磨いていきたいと思います。

 

進化成長

人は誰かの体験を自分のものにしていくときは、自分の体験にしなければなりません。誰かの体験を教えてもらったからといっても、その体験を他人に語っていてもどこか自分のものではないのだから自信を持つことができなくなるのです。

人は真似をする生きものです。

真似というのはとても高度な技術が必要で、日本人はよく世界からコピーする民族と揶揄されたりしますがコピーできるというのはそのものを体得するという意味ですから、実際は本当に難しいことです。

例えば、子どももそうですが最初は身近なものを観察しながら簡単なものから真似していくものです。そうして真似をしながら実際に大人がやっているようにやってみようと思うものです。これは人間に限らず、動植物、昆虫にいたるまで周りの真似をしていきます。

そうしてその真似ができた時に、次第に真似からはじめて自分のものにしていくことがはじまるのです。つまりは、真似をすることで真似ができると自覚します。そして真似ができればそこから自分でもやってみたらその真似の内面にある本質を掴めるのではないかとやる気が引き出されてくるという感じです。

このやる気というものが出さえすれば後は自動的に発達発展していくのです。真似というものは、何よりもこのやる気を誘因するように思います。誰かの真似からやっていくことを馬鹿にする人がいますが大きな間違いであろうと思います。

真似ができるようになるときにはじめてやる気が入るからです。人間はやる気なれば何でもできるものです。これは教育の本質であろうと思います。何かを教えることが教育ではなく、やる気にさせることが教育であるからです。

真の教育は真似からというと誤解されるかもしれませんが、真似したくなるような生き方が身近にあることがより善い社会を構成していくには必要だと私は思います。多様性というのは、真似するものがたくさんある社会のことを言うのかもしれません。

飛行機ひとつ、船ひとつ、ありとあらゆる道具は自然界の真似から発生してくるものです。真似をしているうちにやる気になって翼を持ち、鰭を持ち、生きものは進化してきたのです。

この進化のコツは、やる気にあると私は信じています。

やる気こそが何よりも進化成長を促すということを忘れずに、実践を楽しんでいきたいと思います。

傾聴の本質

傾聴ということについては、一円対話をはじめ色々なところで実践していますがこれは何よりも重要な学びの姿勢であることを実感することばかりです。

あのPF・ドラッガーも「リーダーにとって最も重要な資質は「聴くこと」だと私は考えます。常にインプットし続け、学び続け、成長し続けるためにも、聴くことが重要なのです。」とあります。

素直さを思う時、他人の話を素直に聴ける人を素直であると思います。どうしても自分の概念で歪めて聞いても聴かず、聞いているようで聴こえないのでは、改善しようがないからです。

エグゼクティブ・コーチの第一人者として知られる、ゴールドスミス氏の記事がハーバードビジネスレビューの3月号に紹介されていました。

そこには、「自分の周りにいるすべての人から学びなさい」と常にアドバイスをするそうです。

そして自己変革に成功するか否かを左右する要因が三つあることを述べていますので紹介します。

「その一つが勇気です。自分の顔を鏡で見るように自分と真剣に対峙し、ありのままの自分の姿を見つめる勇気がなければなりません。」

「二つ目は謙虚さです。自分は勘性されたリーダーではなく、まだまだ改善の余地があるということを認める謙虚さがなければなりません。」

「そして三つ目が自己を律するというファクターになります。自分を常に改善し続けていくためには、自己規律というものが不可欠です。」

これらの三つについても、傾聴できなければできないものです。常に自分と正対し、自問自答しながらひとつひとつを改善していく精進があります。弛みない努力と怠らない実践の集積よってはじめてリーダーは自己研鑽を続けていくことができるというもの、言い換えれば話を聴ける状態を維持しているということであろうと思います。

最後に、このゴールドスミス氏はこう締めくくります。

「私は自分の身の周りにいる人を大切にしなさいと言い続けています。私たちの悪い癖が職場に出ていたら、それは間違いなく家庭でも出ているものです。職場で人の話を聴いていなければ、家でも家族の話を聴いていない。職場でよくなるということと同様に、家庭でもよくなることが重要です。企業にとって顧客が重要なのは身近な人だからです。家庭で善くなることができれば、その効果はきっと職場にも及ぶことでしょう。」

身近な人を大切にすることができる人こそが、学び続ける人なのかもしれません。知っているから分かっているからと怠慢にならず、どんなことからも誰からも学び続けていくために傾聴の実践を楽しんでいきたいと思います。

防災の本質

先週末と昨日は都内で大雪が降り、道は所々凍りまた積もっています。

そうなると都会では、すぐに気象の影響を受け交通が麻痺します。人工的に造られた都市では、人間を中心に組み立てていきますから自然というものが入る時に機能が低くなるのでしょう。

私たちは知らずしらずのうちに、麻痺していくのはこの自然から遠ざかっていく感性のことだと思います。

例えば、子どもは落雷や突風にもとても怖がるものです。他にも、地震、大雨、あらゆるものに敏感に反応していきます。これは本能が自然の畏怖を感じるからあろうと思います。しかし都会に住んで、色々な知識を持てば大体こういうものだろうという思い込みや刷り込みを持つようになります。そうすると、想定外であることは起きないと錯覚するのです。ここに危機意識が低下する罠が潜んでいるように思います。

本来、自然というのは想定外のことばかりが起こるものです。

地震や津波、火山の爆発や竜巻、洪水、寒波や熱波なども私たちが想像するのをはるかに超えたものがやってきます。歴史を見てみても、想像を絶する高さの津波や恐ろしい爆発、何年も続く寒波や熱波など常に想定外の出来事があったことが証明されています。

まさか起きないだろうでいつもいたら、今回もまた起きないだろうという感性になり竟には何も感じなくなっていくのです。交通が麻痺するのを分かっていても、たぶん大丈夫だろうとしていつまでも働こうとするのもこの感性が鈍ってきている証拠なのです。

以前、釜石の奇跡というDVDを拝見した時にも感じたのですが自然を畏れ自ら逃げた人たちが助かったという事実に、納得するものがありました。自然から離れたところがもっとも危険なところであることは東日本大震災の時に経験したからです。

本来の私たちの感性が鈍らないようにすることが防災の本質ではないかと私は思います。これは天災だけではなく人災に至るまですべてその危機意識が低下しないような訓練が必要だということです。これは自然だけに限らずありとあらゆる自らに降り注ぐ危険や危機というものは、日ごろのその危険や危機に備える感性がなくなることで災害となり発生するからです。

これは生きていく上で、生き残る上で、人間が何よりも失ってはならない感性です。

カグヤでは3月11日を「大切なことを忘れないDAY」として会社を休みにして防災学問と防災訓練の日にしています。これもまた、忘れてはならないものを子どものモデルになるようにいつまでも覚えていようとする私達の試みであり理念の実践の一つです。

人間都合でいることの怖さ、本来の自然への畏怖の価値を忘れずに常に機会を逃さずに行動していきたいと思います。今の生きる私たちが遺志を受け継いで子どもたちを守り抜いていきたいと思います。

「考えない」

知識というものの使い方には色々とあるように思います。

知識はあるときは、効果がありますがまたある時は邪魔をします。知識はもろ刃の剣であり、使い方次第で本質から外れてしまうことがあるのです。

例えば、考えても考えても答えが出ないとき、その時には「考えない」で実行するということがあります。これは考えることでは答えが出ないようなことをいつまでも考えて解決しようとしても無理だという選択をするということです。

しかしそれを分かっていてもいつまでも行動できないのは知識というものがあるから行動を邪魔していくのです。言い換えれば知識そのものが我欲を助長してしまっているのです。

知識というものは、思想であり、思想は行動ではありませんから埋められない壁があります。その埋められない壁とは経験のことであり、経験がなければ体験できませんから思想では補えないのです。つまりは考え過ぎることで、本来の本能や直観のようなものを覚っていくことがなくなっていくように思います。

本来、人間には全てのものが備わっていてその中には自然が一体になって存在しているということころに立脚するとします。すると心があり、そこには魂がありとすれば知識がなくても完全な存在ともいえます。産まれてきては、呼吸をし心臓を動かし、そして食べ物を探すように生きる方法を自覚しています。

つまりは考えなくても私たちは生きる力が備わっているということです。それを考えることによってできなくしていくのがこの思考の罠なのかもしれません。

クリシュナムルティの日記に下記のようなことが書かれています。

「あなたは、多くの知識を持ってはいるが、心は貧しい。そして心が貧しいほど、知識への欲求は大きくなる。」

これは私なりの解釈ですが、実践しない思考では心が貧しい。貧しくなればなるほどに実践をしなくなって知識ばかりを探そうとするという意味ではないかと思います。

今の時代は知識ばかりで成り立たせようとしたことで真心や思いやり、そして誰かのためにと自分を盡していくことで愛することなどをあまり大事にしなくなったようにも思います。そういう刷り込みを受けて育ってしまえば、知識が豊富だと心も豊富だと勘違いするのかもしれません。だからこそ刷り込まれた知識がそのものが邪魔をしては固定観念や先入観にいつも囚われてしまうのです。この固定観念や先入観こそが、本来の自我の目覚めを妨げていることに気づかないのです。

それを取り除くには自然を信じる「勇気」であろうと私は思います。

今は勇気が必要な時代、その勇気を大義のためや愛する人たちのためにと発揮していくことが「考えない」ということなのかもしれません。「自分の実践が誰かの勇気になる」のだからこそ、勇気を出すことを優先していくことが真の心の豊かさなのかもしれません。

「考えない」ということは、思い切った勇気、出し惜しのない真心、思いやり誠実に盡す、人を信に愛することなどを言うのです。そうして観ると考えないで実践しようとするのは人道の極みなのかもしれません。

日々に実践することを何よりも大切に取り組んでいきたいと思います。

思いやり

中国に陽明学というものがあります。

これは中国が机上の学問に偏ってきた際に、本来の実践こそが学問であると定義したものであろうと思います。

いつの時代も、教えというものが実践と分離して知識としてだけ先に詰め込めば現実離れしてしまうのでしょう。体験したものをより善い体験にしていくような精進が、本来の自分を学問によって立てるということなのかもしれません。

その陽明学の根本思想のひとつに「致良知」というものがあります。この良知とは人が本来持っている是非を知る心であり、この良知を遮られることなく発揮することを致良知といわれます。

自分というものには、色々な価値観による自我があります。その自我は、無意識に自分を正当化したり独善的になったり、また物事の判断を自分中心に行っていくものです。これは自己防衛本能のことで、自分を自分で守るために必要な機能の一つであろうと思います。

しかし本来、地球のつながりの中で生きているのだから周囲のためには何かのために自分を活かそうとするとき、もう一つ別の自我が存在していることに気づきます。よく人間が尊いと思っている、自己犠牲の話であったり、大義や思いやりで自分を捧げていくような生き方の時に語られるものです。

人間は、自分の小我を超えて大我に目覚める時、色々な境界線を越えて自由になると言われます。これは部分で生きるのではなく、全体によって活かされるということかもしれません。天を敬い、天と同じような真心を持ちたいと願うのが陽明学の本質なのでしょう。

だからこそ致良知は陽明学で唱えられる「事上磨練」と「知行合一」を尊いことにしています。

そして今の時代でいえば、この「致良知」は自他を思いやることで引き出されてくるように思います。自分中心の物事の見方を超えて、周りに配慮し思いやることができて修己即治人になるように思います。

日々に、真心や思いやりで生きるというのはいつも周りのことを思いやり生きる活き方、活かされ方を実践するということなのでしょう。中江藤樹の生き方から学び直していきたいと思います。

福自省

日々の実践をするということは、日々を怠らないということです。

これは日々というものは、大切な記憶に焼き付けていくものですがその焼きつけたものが必ず子孫たちの発展につながっていると自覚するからのように思います。自分だけでもという「私」に囚われてしまったならばまさに私欲にもっていかれたとなるように思います。

二宮尊徳に、このような話が残っています。

「天理と人道の区別をよくわきまえている人は少ない。身体があれば欲があるのは天理である。田畑に雑草が生ずるのと同じである。それゆえ、人道は私欲を制するのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とするのである。このように天理と人道はまったく別のものだから、天理は永遠に変わるものではなく、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。それゆえ、人道は勤めることを尊しとし、自然にまかせるのを尊ばない。人道で勤めるべきは、己に打ち克つという教えなのである。己とは私欲のことだ。己に打ち克つとは、わが心の田畑に生ずる雑草を取り捨てて、わが心の米を繁茂させる勤めのことだ。これを人道という。『論語』に「己にうち克って礼の規則にたちかえる」とあるのはこの勤めのことである。」

つまりは、自然は日々に怠らずに流れていても、人間は私欲が出てくると怠ることになる。だからこそ「人道は一日怠れば、たちまちすたれる」という意味になる。

ここに如何に「実践」を徹底することが大切なのかということが自明しています。

人は私欲が入ってくると、その実践を自分の都合で置き換えていくものです。最初に決めた初心や何のために行うのかということを忘れて、気が付けば実践風のことを実践と呼んだりもするものです。しかし本来の実践とは、初心のままであることであり、最初に覚悟し決意したことを何度も何度も怠らず勤めていくことのようにも思います。

今のような誘惑の多い時代に、大切なものを守るというのは自然農の生き方ように真心や誠実さを優先する実践を行うことのように思います。

そして実践が独りよがりにならないためにはそれを福に転じていく精進がいるように私は思います。もちろん実践を徹底するとなれば、思い通りにいかない環境の中で上手くいかないようなことにも出会います。それをどれだけ乗り越えるかというのは、誠実にそれを受け止めたか、受け容れ改善したかということが問われるのです。

「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」

二宮尊徳の生き方として、実践の大元にはこの誠実という正直があるのです。転じるというのは、簡単なことではなくどれだけ誠実さの方に舵を切ったかが常に問われます。それは思いやりのことですが、思いやりを増やしていく、思いやりをより大事に育てていくといように実践を高めていくことが真の人格的成長、つまりは天を見ては自分を正すという実践になっていくようにも思います。

日々を怠らず勤めるというのは、日々の実践を積み上げていくということでしょう。

他人のことよりも自分の実践が高まっているか、誠実であるかを常に自省していきたいと思います。

チャレンジ精神

人ははじめて何かを行う時には緊張します。それは自分がうまくできるかが分からない、経験がないからこそ考え過ぎてしまうのです。

この考え過ぎるというのは、頭ばかりが先に動いている状態のことを言います。つまりは考えるというのはどこか自然体ではなくバランスを崩した状態ということです。

新人の時というのは、ミスをたくさんするものです。なぜならミスをするのは、練習不足だからです。ミスというのは、本番で改善するところがあるということでありそれを何度も修正することではじめてミスがなくなってくるのです。

つまりはミスとは、真剣勝負を積みかさて気づけた自分にとって必要な課題ということです。新人の時はミスを沢山した方が善いというのはそれだけ課題をたくさん発見できるということだからです。よく失敗例にプライドばかり高くなって本気になれないというのは、自分を守り過ぎる恐れや不安からくるのです。これもそういう自己独善中心的な発想そのものを取り除く練習が必用だという課題に出会えるのです。

このようにミスを怖がって避けていたらいつまでも上達しなくなるのは、課題をいつまでも見つけることができないからです。ミスを誤魔化してしまうと、そのミスをまた別のミスで補うようになるだけでいつまでも改善されることがありません。見直すという字は、改めてまた観るということですからやった経験からそれを見つめて直すことではじめて上達になるのです。考え過ぎるのは練習不足、経験不足ということなのです。

そしてこの考え過ぎるという状況を脱するには、この練習をしっかり積む他に如何に緊張しないかという場数を踏み自分自身の緊張を乗り越える工夫を積まなければなりません。例えば、結果をあまり気にしないで善い仕事になるように努力するとか、いつもの自分のペースで取り組むとか、自分が自分自身を乱さないようにと留意して自分が最高のパフォーマンスを発揮できる状態を創る必要があるのです。

ほとんどのスポーツや仕事などは、最初の段階の緊張、そして実力が備わってきてからくるプレッシャーとの正対です。新人の時に沢山の経験をして失敗をたくさんすることが、将来訪れるプレッシャーを乗り越えていくための基礎になっていくように私は思います。

リーダーやエースなどは、プレッシャーに晒されていきますがその中でも楽しめたり子どものような感受性と遊び心で何でもプラスに転じていくにも、この失敗を乗り越えて強くなった経験が支えになっていくからです。

失敗を怖がってはいけません、ミスすることを恐れてはいけません。それは強くなるということ、逞しく生きていくということを学ぶことだからです。

挑戦をするというのは、失敗をするということです。子ども達のためにも失敗の中にこそ至玉の教え、研鑽錬磨の鑢があるのだと念じてさらなるチャレンジ精神のままに楽しんでいきたいと思います。

緊張とプレッシャー

人生ではプレッシャーや緊張を感じるシーンというものは沢山あります。それはスポーツであったり試験であったり仕事であったりと様々です。これらは成長していくために必ず通過するものであり、人生の中では何度も似たような体験を積んで発達していくように思います。

ここで緊張とプレッシャーを深めてみようと思います。

そもそも緊張とは、自分のことを意識するという自律神経の働きともいえます。自分が失敗したらどうしようかとか、自分がうまくできなかったらという他人から評価されてしまう恐怖感から湧き上がってくるものです。結果を気にしすぎたり、最悪な場面は避けようとし過ぎたりしているうちに感情に呑まれてマイナス思考に陥ってしまいます。脳科学的に言えば、前頭葉前部が正常に働けなるからだと言われますが、自意識過剰になることで心と頭のバランスが取れなくなってしまうような感覚に陥るのです。

例えば、誰でも自分のことをあまり気にし過ぎたら自分の手足でも動かづらくなる体験はしたことがあると思います。自分のことを気にせずに動かすときは正確でも、自分のことを気にしすぎるとうまく動かすことができません。もちろん、緊張を乗り越えるには体の慣れという場数の練習、このパソコンのキーボードを打つように最初は意識して打っていたものが今では自動で打てるように何度も何度も練習することが必要です。しかし同時に、心もヤル気を維持して何度もチャレンジする勇気を出す練習が必要です。そしてそれを達するために技能を磨く練習も必要です。つまり以上の心技体の経験とバランスがあってその緊張も解きほぐされていきます。

一般的には緊張はよくない、緊張するなとはよく言われますが、ある意味でのプレッシャーは善い、プレッシャーを転じていけと言われるのはなぜかということを考えてみます。

そもそもプレッシャーとは、重圧や威圧という意味で使われます。これは外圧的な力で何かの圧迫感があるというものです。自分だけの体であれば身軽ですが、背中に背負うものがあったり何かの重荷が乗れば思い通りには動けなくなっていきます。

例えばチームスポーツや仕事であっても皆の期待を背負って取り組んだり、ここぞで外してはならないような大事な局面に善い働きができるかどうかの時にプレッシャーを乗り越えてという言い方をします。プレッシャーとは、役割を担い、責任を負うということであり、自分が背負って立つのだという自覚がある人がはじめて感じれるものです。なので緊張とは少し異なり、仲間のためにや誰かのためにと成長してきた人たちが実感するものです。

組織の中でのキャプテンやリーダー、またはエースをはじめある種の立場を持つ人たちはいつもチームの中で実力が認められた存在です。だからこそいつもプレッシャーにさらされているともいえます。

しかしこれがその人を真に成長させていくものになります。人は自分だけのことを考えていたらあまりにもちっぽけな存在になってしまいます。自分を含めた周りの多くの人達のことをどれだけ思いやりその人たちのことを考えているかで偉大な存在にもなるのです。

人間は、自分が授かった恩恵や感謝などの歓びがあればあるほどに御恩返しをしたいと願うものです。そしてそれが自分の挑戦が誰かのための勇気になると信じることであり、自分が諦めないことで誰かの幸せになると信じぬくことができるのです。

このプレッシャーというものは、実は大変有難いことであり、それだけ実力が備わってきた証であるとも言えます。自分が誰かの役に立てるところまで努力したからこそ、自分が誰かの役に立ちたいと本気で願ったからこそプレッシャーもかかってくるのです。そのプレッシャーが真の自律や自立を促すことでリーダーへの道のりを歩んでいくように思います。

そしてリーダーになるとき、そこに仲間の存在に気づくのです。仲間がいるからこそ、努力でき、仲間を守りたいからこそ強くなりたいと願うのです。そして仲間を守りたいと思うからこそ助けになるのです。

話を戻せば緊張は自分自身で練習をして乗り越えていくものですが、プレッシャーは誰かや周囲のためにと思いやりを実践することで乗り越えていくものではないかとも私は思います。

そしてプレッシャーを転じていくというのは、それを福にしていくということであろうと思います。何があっても誰かのために遣り切ったのならばそれで善いという境地です。この生き方に人が感動し、それが他の誰かを変えていくことになるからです。

善い意味でのプレッシャーとは、重圧を避けることではなく重圧があるようなお役をいただけたことに感謝する心のことかもしれません。福に転じるには、そういうお役目役割が必ず誰かに交代されること、それまではしっかり自分が勤めようと謙虚に生きることなのかもしれません。

活かされるというのは、自分の役割と影響力を自覚することのように思います。

緊張とプレッシャーをミマモリングし、新たな成長を促していきたいと思います。

全自働

古来から日本には八百万の神々というものの思想がありました。

これはよく宗教で比較される一神教か多神教かというものではなく、万物円満、言い換えれば自然そのものの教えであろうと思います。

自然には、和魂という寛容と荒魂という厳格が調和しています。陰陽で表現されることもありますが、常にバランスを保ちながら全体のはたらきを渾然一体と持続していくものです。

そもそも一神教や多神教という考え方は、人間の都合によるものです。時には厳格、時には寛容というのが自然でありそのどちらかだけが自然であるということはありません。どちらか片一方に偏ればその反対側の方に次第に作用していく、それは円であるように転じ続けていくことでバランスを保つのでしょう。

私たちはだからこそ、荒ぶるものと和やかなるものを共に祈り自然の見守りを実感しつつそこに自分たちを合わせて循環の一部になって永遠と共にして生きていたように思います。

今の時代は、教えというものだけが実践と分離してしまったように思います。

本来の教えというものは、教典がない神道のように具体的に実践によって背中を通して学び伝承してきたもののように思います。それが文書を残し、実践をせずとも真理に達するかのように語られることで余計に人々の苦しみを増やしてしまっているようにも思うのです。

真の教えというものは、その人の生き方で示すものであり、それは実践する中で一つ一つ丹誠を籠めて取り組んでいくことのように思います。何でも簡単便利に、速く効率的になどといった誤った考え方が蔓延ってから教えもまた変化してしまったのかもしれません。

自然というものの教えは、必ず実践とセットで存在しています。

自然を学ぶということも同じく、実践を確実にしつつ自ずから働くことで得られるのかもしれません。人間が作意的に自分の思い通りに何かをしようとするよりも、すべてを自然にお任せしつつ全自働で居る事の方が教えの中にいるのかもしれません。

生き方や働き方という言い方の背景には、常に「実践」の尊さ、活きる歓びが存在します。

我欲に負けて教えに囚われないように、丁寧に一つ一つの実践を積み重ねていこうと思います。