私達の祖先たちは「いのち」というものをどう捉えていたのは、かつての生き方や暮らしに遺されています。
そもそも私達日本人の心にある「いのち」というのは、使い捨てるものではなく遣い切るものという発想が原点にあったからこそ「もったいない」という考え方があるのです。
例えば、宮大工が使う式年遷宮や神社仏閣で使われる木材一つ、それはあらゆるところで再利用されています。今の住宅のように全てを破壊して廃棄するのではなく、昔の人は解体をして再利用します。他にも土壁一つであっても、それが崩れてまた補修し、補修が済めばまた土に戻して粘土にしまた他の土壁として甦生するのです。古人は「いのち」が観えたのでその智慧をもっていのちそのものを最期まで大切に遣い切ろうと工夫したのです。
今の時代は、何でも使い捨てようとします。
そのものの価値よりもその道具を単なる利用価値のある「モノ」として理解しているから使えなくなればいらないという発想です。しかし本来は、その道具は「いのち」としての存在価値で理解しているのだから最期まで大切に活かそうという発想が私たちの本質だったのです。
今の時代のように何でも目に見えるものしか信じないようにと「モノ」の価値に置き換えられてしまうと、目には観得ないものはこの世にはないものだと盲信させられていますがそれでは自分たちは一体何でできているのかということになるのです。モノではないのはすぐに分かります、そこに心があるからです。
自分を粗末にする人が増えるのは、いのちを粗末にしている環境の中に住まうからのようにも思います。それが孤独や孤立、心を閉ざすような関係を拡げてしまっているようにも思います。社會の仕組みとして大量にモノを粗末にしだせば、そのうち自分たちのことも粗末にしだすものです。
本来の循環型社會とは何か、それはいのちを粗末にしない社會のことなのです。
昔は、どんなものでもいのちがあるからこそ捨てようとはしませんでした。
江戸の300年の暮らしは、寿命を伸ばす仕組みだったのです。無駄というものをなくしていこうとするのは、決してそれが単に合理的だったからではなく、いのちを少しでも伸ばしたい、平和を少しでも永続させていきたいという時代の人々の心の願いだったのです。
戦国時代に、沢山の人達が死に、そしてそのことから少しでも長く平和を維持していこう、いのちを大切に皆で寿命を伸ばそう、つまりは「いのちを粗末にしない実践」を行ったのです。
寿命とは、いのちのことです。
大切にされることで寿命は伸びます、粗末にすれば寿命は短くなります。都市であってもそれは単に都市ではなく、先祖たちはその都市ですらモノではなくいのちだとしその寿命を伸ばす工夫をしたのでしょう。日本人の素晴らしさというのは、八百万の神々の思想があるようにすべてのものをいのちある神様の化身としていのちを見出したところにあるように思います。
そしてそれは家という発想の中にも、家訓があるように家をいのちだと捉えているから老舗や家が永続するのでしょう。そこにはどんないのちも粗末にしないという共通の理念が存在しているように私には実感します。
だからこそ家といういのちを伸ばすのもまた、その家に住まうものたちの心掛けと心構えがあってのことなのです。少しでも永続させたいのならば、いのちを大切に寿命を伸ばすことに意識を重ねていかねければなりません。せっかくこの世の楽園に産まれてきたのだからこそ、少しでも長くこの世に止まりたいと思うのがいのちの開花のように思います。
子どもたちのことを思えば思うほどに、いのちを大切にすることを実践で示したいと感じます。
身近なところからの生活を一つずつ見直していきたいと思います。