全自働

古来から日本には八百万の神々というものの思想がありました。

これはよく宗教で比較される一神教か多神教かというものではなく、万物円満、言い換えれば自然そのものの教えであろうと思います。

自然には、和魂という寛容と荒魂という厳格が調和しています。陰陽で表現されることもありますが、常にバランスを保ちながら全体のはたらきを渾然一体と持続していくものです。

そもそも一神教や多神教という考え方は、人間の都合によるものです。時には厳格、時には寛容というのが自然でありそのどちらかだけが自然であるということはありません。どちらか片一方に偏ればその反対側の方に次第に作用していく、それは円であるように転じ続けていくことでバランスを保つのでしょう。

私たちはだからこそ、荒ぶるものと和やかなるものを共に祈り自然の見守りを実感しつつそこに自分たちを合わせて循環の一部になって永遠と共にして生きていたように思います。

今の時代は、教えというものだけが実践と分離してしまったように思います。

本来の教えというものは、教典がない神道のように具体的に実践によって背中を通して学び伝承してきたもののように思います。それが文書を残し、実践をせずとも真理に達するかのように語られることで余計に人々の苦しみを増やしてしまっているようにも思うのです。

真の教えというものは、その人の生き方で示すものであり、それは実践する中で一つ一つ丹誠を籠めて取り組んでいくことのように思います。何でも簡単便利に、速く効率的になどといった誤った考え方が蔓延ってから教えもまた変化してしまったのかもしれません。

自然というものの教えは、必ず実践とセットで存在しています。

自然を学ぶということも同じく、実践を確実にしつつ自ずから働くことで得られるのかもしれません。人間が作意的に自分の思い通りに何かをしようとするよりも、すべてを自然にお任せしつつ全自働で居る事の方が教えの中にいるのかもしれません。

生き方や働き方という言い方の背景には、常に「実践」の尊さ、活きる歓びが存在します。

我欲に負けて教えに囚われないように、丁寧に一つ一つの実践を積み重ねていこうと思います。