日々の実践をするということは、日々を怠らないということです。
これは日々というものは、大切な記憶に焼き付けていくものですがその焼きつけたものが必ず子孫たちの発展につながっていると自覚するからのように思います。自分だけでもという「私」に囚われてしまったならばまさに私欲にもっていかれたとなるように思います。
二宮尊徳に、このような話が残っています。
「天理と人道の区別をよくわきまえている人は少ない。身体があれば欲があるのは天理である。田畑に雑草が生ずるのと同じである。それゆえ、人道は私欲を制するのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とするのである。このように天理と人道はまったく別のものだから、天理は永遠に変わるものではなく、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。それゆえ、人道は勤めることを尊しとし、自然にまかせるのを尊ばない。人道で勤めるべきは、己に打ち克つという教えなのである。己とは私欲のことだ。己に打ち克つとは、わが心の田畑に生ずる雑草を取り捨てて、わが心の米を繁茂させる勤めのことだ。これを人道という。『論語』に「己にうち克って礼の規則にたちかえる」とあるのはこの勤めのことである。」
つまりは、自然は日々に怠らずに流れていても、人間は私欲が出てくると怠ることになる。だからこそ「人道は一日怠れば、たちまちすたれる」という意味になる。
ここに如何に「実践」を徹底することが大切なのかということが自明しています。
人は私欲が入ってくると、その実践を自分の都合で置き換えていくものです。最初に決めた初心や何のために行うのかということを忘れて、気が付けば実践風のことを実践と呼んだりもするものです。しかし本来の実践とは、初心のままであることであり、最初に覚悟し決意したことを何度も何度も怠らず勤めていくことのようにも思います。
今のような誘惑の多い時代に、大切なものを守るというのは自然農の生き方ように真心や誠実さを優先する実践を行うことのように思います。
そして実践が独りよがりにならないためにはそれを福に転じていく精進がいるように私は思います。もちろん実践を徹底するとなれば、思い通りにいかない環境の中で上手くいかないようなことにも出会います。それをどれだけ乗り越えるかというのは、誠実にそれを受け止めたか、受け容れ改善したかということが問われるのです。
「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」
二宮尊徳の生き方として、実践の大元にはこの誠実という正直があるのです。転じるというのは、簡単なことではなくどれだけ誠実さの方に舵を切ったかが常に問われます。それは思いやりのことですが、思いやりを増やしていく、思いやりをより大事に育てていくといように実践を高めていくことが真の人格的成長、つまりは天を見ては自分を正すという実践になっていくようにも思います。
日々を怠らず勤めるというのは、日々の実践を積み上げていくということでしょう。
他人のことよりも自分の実践が高まっているか、誠実であるかを常に自省していきたいと思います。