中国に陽明学というものがあります。
これは中国が机上の学問に偏ってきた際に、本来の実践こそが学問であると定義したものであろうと思います。
いつの時代も、教えというものが実践と分離して知識としてだけ先に詰め込めば現実離れしてしまうのでしょう。体験したものをより善い体験にしていくような精進が、本来の自分を学問によって立てるということなのかもしれません。
その陽明学の根本思想のひとつに「致良知」というものがあります。この良知とは人が本来持っている是非を知る心であり、この良知を遮られることなく発揮することを致良知といわれます。
自分というものには、色々な価値観による自我があります。その自我は、無意識に自分を正当化したり独善的になったり、また物事の判断を自分中心に行っていくものです。これは自己防衛本能のことで、自分を自分で守るために必要な機能の一つであろうと思います。
しかし本来、地球のつながりの中で生きているのだから周囲のためには何かのために自分を活かそうとするとき、もう一つ別の自我が存在していることに気づきます。よく人間が尊いと思っている、自己犠牲の話であったり、大義や思いやりで自分を捧げていくような生き方の時に語られるものです。
人間は、自分の小我を超えて大我に目覚める時、色々な境界線を越えて自由になると言われます。これは部分で生きるのではなく、全体によって活かされるということかもしれません。天を敬い、天と同じような真心を持ちたいと願うのが陽明学の本質なのでしょう。
だからこそ致良知は陽明学で唱えられる「事上磨練」と「知行合一」を尊いことにしています。
そして今の時代でいえば、この「致良知」は自他を思いやることで引き出されてくるように思います。自分中心の物事の見方を超えて、周りに配慮し思いやることができて修己即治人になるように思います。
日々に、真心や思いやりで生きるというのはいつも周りのことを思いやり生きる活き方、活かされ方を実践するということなのでしょう。中江藤樹の生き方から学び直していきたいと思います。