「考えない」

知識というものの使い方には色々とあるように思います。

知識はあるときは、効果がありますがまたある時は邪魔をします。知識はもろ刃の剣であり、使い方次第で本質から外れてしまうことがあるのです。

例えば、考えても考えても答えが出ないとき、その時には「考えない」で実行するということがあります。これは考えることでは答えが出ないようなことをいつまでも考えて解決しようとしても無理だという選択をするということです。

しかしそれを分かっていてもいつまでも行動できないのは知識というものがあるから行動を邪魔していくのです。言い換えれば知識そのものが我欲を助長してしまっているのです。

知識というものは、思想であり、思想は行動ではありませんから埋められない壁があります。その埋められない壁とは経験のことであり、経験がなければ体験できませんから思想では補えないのです。つまりは考え過ぎることで、本来の本能や直観のようなものを覚っていくことがなくなっていくように思います。

本来、人間には全てのものが備わっていてその中には自然が一体になって存在しているということころに立脚するとします。すると心があり、そこには魂がありとすれば知識がなくても完全な存在ともいえます。産まれてきては、呼吸をし心臓を動かし、そして食べ物を探すように生きる方法を自覚しています。

つまりは考えなくても私たちは生きる力が備わっているということです。それを考えることによってできなくしていくのがこの思考の罠なのかもしれません。

クリシュナムルティの日記に下記のようなことが書かれています。

「あなたは、多くの知識を持ってはいるが、心は貧しい。そして心が貧しいほど、知識への欲求は大きくなる。」

これは私なりの解釈ですが、実践しない思考では心が貧しい。貧しくなればなるほどに実践をしなくなって知識ばかりを探そうとするという意味ではないかと思います。

今の時代は知識ばかりで成り立たせようとしたことで真心や思いやり、そして誰かのためにと自分を盡していくことで愛することなどをあまり大事にしなくなったようにも思います。そういう刷り込みを受けて育ってしまえば、知識が豊富だと心も豊富だと勘違いするのかもしれません。だからこそ刷り込まれた知識がそのものが邪魔をしては固定観念や先入観にいつも囚われてしまうのです。この固定観念や先入観こそが、本来の自我の目覚めを妨げていることに気づかないのです。

それを取り除くには自然を信じる「勇気」であろうと私は思います。

今は勇気が必要な時代、その勇気を大義のためや愛する人たちのためにと発揮していくことが「考えない」ということなのかもしれません。「自分の実践が誰かの勇気になる」のだからこそ、勇気を出すことを優先していくことが真の心の豊かさなのかもしれません。

「考えない」ということは、思い切った勇気、出し惜しのない真心、思いやり誠実に盡す、人を信に愛することなどを言うのです。そうして観ると考えないで実践しようとするのは人道の極みなのかもしれません。

日々に実践することを何よりも大切に取り組んでいきたいと思います。