今の世の中の刷り込みの一つに押し付けられ管理するというものがあります。
これは小さい頃から学校や様々な場所で、大人から一方的に何かをやらされることで身に着けてくるものです。もちろんやらされることが悪いとか良いとか言っているわけではなく、人はやらされると自ら気づく機会が得にくくなるように思うのです。
人は頭で分かるというものと、自らの感覚で気づくというものがあります。前者の分かるは、単に知識として理解しただけですが後者の気づきは体験や経験を通して納得するというものです。
この納得するというのは、やらされてできるものではなく自らで気づくからこそはじめて身に修まるように思います。本人が身に修まれば楽しめるものですが、分からないままに遣り続けるというのは疲れるものです。本来の分かるというのは、頭ではなく気づいて納得することが分かったということだからです。
つまりここから考えてみても主体性を相手に求めるときと、自分が主体性であるときは結果までのプロセスが異なるということが観えてきます。
主体性がもしも相手になる場合は、「やらせる」「してもらう」という具合で例えば上司が部下に仕事をやらせようとしたり、してもらおうとすることで部下は上司にとって管理される対象になります。この場合は、上司部下お互いのプロセスが受動的になりその両方が相手の出方次第になりますから主体性などは発揮されません。
よく会社などでチームワークが停滞するのもこの理由で、御互いに受動的に相手次第になり出方を待っているからどう動けばいいかが合わせられず協働が機能しなくなるのです。
これとは別に、もしも「一緒に」という具合に上司も部下も共に一緒にやるのであれば管理はせずに同時にプロセスを共有しようということになります。すると、御互いに自発的になり御互いがそれぞれに自ら考えて一緒に取り組んでいるのだから主体性は存分に発揮されているのです。
そうなれば、互いに尊重し合い互いに力を合わせて協働していくことができるようになります。しかしこれができないのは、「一緒に」という意識がなくなって、「自分」という意識が強く出てくるからできなくなるように思います。
人は皆と一緒にやるときは思いやりで動きますが、自分だけでやるときは立場で動くものです。常に相手を思いやれるのは、一緒にやろうと決めているからです。個々の主体性というのは相手か自分という二者択一の関係ではなく、一体の関係の時にだけ発揮されるように思います。
学校で画一的に、先生と生徒と分けられたり、親と子が分けられたりを上から下へとか下から上へとか立場などで教えられることで分からなくなったのでしょう。本来は、一緒に育ち合うもの、一緒に分かり合うものが人間関係の本質なのです。
気づき成長するには、身近にいる人たちのことを一緒に育つ関係であると大切に思いやり共に学び共に生活していることを忘れてはならないと思います。
御縁があった人たちとは、一緒に生活している人たちです。
如何に思いやりを優先するかは、一緒にやっていくことを優先していくことだと思います。刷り込みを取り除き、協働の楽しみを現場に拡げていきたいと思います。