無意識に自分の行動パターンを制限するのに習慣というものがあります。
マンネリなどもそうですが、同じことを長く続けていくとそこから抜け出せなくなったりします。変化を怖がったり、新しいことを嫌がるのは旧いやり方の固定概念が染みついてしまい払拭できずに似たようなことを繰り返してしまうのです。
自分の習慣を修正するには、繰り返し改善を伴う練習をするしかありません。これもまた習慣の力をつかって打開していくのです。
人は無意識ですが、我が入り込み自分の思い通りにしてしまいたいと思っているものです。人の話を聞いているようで聴かなくなってしまうのも自分を中心にして物事をを考えてしまうからです。いくら客観的だと自分で思っていてもその実は、無意識のうちに我が入り込んでいるものですからよほど透徹する信念と智慧と勇気で心を澄ましていなければ正直になっていることはないからです。
習慣というものは、悪い習慣、良い習慣というものも自分の都合で持ってしまいます。人生は「基本的生活習慣の見直し」からとよく言われますが実はこれは何よりも重要で何よりも難しいことなのです。
生き方というものは、習慣の上に成り立っているものです。その人がどんな生き方をするかは、日常の判断基準、どのように行動して実践している人かということになるのです。自分を心配し自分のためにだけ時間を用いる人もいれば、誰かのためにと思いやりで時間をフルに使い切る人もいます。
それは見た目にも違いが分かりますが、本当に違うのは何かと言えば習慣なのです。
如何に善い習慣を持つかというのが人生を決めるようにも思います。それは良いとか悪いとかではなく、中庸の習慣、真心の習慣、至誠の習慣によって日々を上書きしているかということのようにも思います。
そのように観照すれば本当の善い習慣とは、善を行うということかもしれません。
全てを丸ごと善いことにしていこうと「善行」にしていこうとする真心で実践していけば、人は次第に素直に正直になってきます。言い換えれば、正しく聴けるようになってきます。正しく聴ければ自分がどうあればいいかが次第に自明してくるようにも思います。
そもそもの習慣の本質とは、生き方としての「善行の集積」のことなのでしょう。
自分のパターンを崩すのは、常に生き方が正直であるようにと修正し改善していくということです。練習の価値もまたそこにありますし、コーチの真価もまたそこにあるように思います。如何に正直にバランスを維持し続けるかは生涯のテーマの一つです。
来ているものを自分の都合で選ばずに学びそのものをいただけることに感謝して、新しいことにチャレンジする好奇心を日々に高めていきたいと思います。