人は直接的な関わりと、間接的な関わりで全体を捉えます。それは部分が全体と考えるとか、全体が部分と考えるかにも似ています。
本来、御縁というものを考えてみても直接的なご縁をいただけるのはそれまでに数多くの間接的なご縁があってのことだと実感するものです。
同じように感謝も、直接的にいただいたものと間接的にいただいたものがあるのです。例えば、誰かに何かをしてもらったときに感謝を実感するものです。しかしその感謝のほかに、存在そのもへの感謝というものがあります。それは両親であったり、親友であったり、師であったり、仲間であったり、先人たちであったり、愛する人たちであったりとそこには何かをしてもらわなくても存在していただいていることに感謝を実感するのです。
西洋では、直接的に何かをすることをサービスのように言い、間接的なことをホスピタリティという言い方します。今の時代は、直接的なものをお金で換算するようになっていますから間接的なものをあまり優先しなくなっているようにも思います。
しかし本来は、真心も感謝もお金で換算するものではありませんから間接的である方が実感しやすいのです。極端な例をあげれば水はいくら、空気はいくら、太陽の光はいくらと値段をつけては販売したとしても、自然全体が渾然一体につながっていることへの値段はつけられないのです。
つまり間接的につながっている全体があってこその自分だということを謙虚に感じることなしに本来の感謝もご縁もないのです。
御恩返しというものも、直接的にお返しできるものはほとんどなく間接的にお返しすることではじめてできるようにも思います。存在価値に感謝するからこそ、支えてもらっていることに気づけるのです。
支えてもらっているからこそ、他を支えようとするのです。
それが本来の人間の姿であろうとも思います。今の時代は刷り込みのせいで、本来の姿を見失っているようにも思います。お金で換算できる価値の中に住んでいるともいえるのです。しかし生き方というものや働き方というもの、その実践の価値はまさに御恩返しにつながっているように私には思えます。
感謝の心が育てば育つほどに、間接的なものが観えてくるように思います。
存在価値がいつも実感できるような心の余裕と、真心を澄ませていきたいと思います。