中国の故事、晏管列伝第二に「管鮑の交わり」があります。
ここでは省略しますが厚い友情のたとえのことを言い、御互いのことを深く理解し合い、心から認めている真の友情の話です。
人が人のことを知るということは、その人のことを深く認めているということであろうと思います。それがあれば表面上の動作や行動を見ても、きっと何か理由があるとその人のことを信じられるからです。
人は優しすぎたり、真心を盡していたりすれば一般的には考えられないようなことをしてしまうものです。それは他人がみれば恋慕感情のように勘違いされたり、もしくは周りが勝手に評論して嫉妬のようなものに換えられたりしても、その友への忠義は本物だから嘘がないのです。
御互いに深く理解するには嘘のない関係を築けるかということであろうと思います。
それは自分の中にある正直が相手の中にある正直と同質であるという確信かもしれません。
自分の真心を信頼しているからこそ、相手の真心が信頼できるのです。
自分と同質のものを共有できるというものは、義があって忠なのかもしれません。
私が尊敬する日本の交わりに、木曽義仲があります。木曽義仲の話には、感動するものが多く、今井兼平らとの深い友情に感動したことを憶えています。魂の中にある曾ての思い出が友愛の記憶を交わるのでしょう。
松尾芭蕉が墓を木曽殿の隣にと遺言し、義仲寺にあるのを拝謁したとき込み上げてくるものがありました。そこで出会った保田與重郎の墓にも同時に深い邂逅を憶えたのを思い出します。
友とは、共にする生き方同時のことかもしれません。
一緒に生きるということは、自分の与えられた運命に関わらず共に魂を昇華していこうとする天にして義、命にして忠のことかもしれません。そういうご縁を持てる人との出会いというのは、どこか御互いだけが心に持つ無常観に似た深い悲しみがあるように私には思います。
以前、鞍馬寺にて悲しみが慈しみになると教えていただいたことがあります。
慈悲の心とは、友情のことかもしれません。
そして友情を観る時、その悲しみを観ているのかもしれません。
一生の中で時として心を分かち合いそのような生涯の友を持てるということはとても幸いのことです。自らがそのような一緒の友であるのか、朋に自問自答し、人事を盡して伴に天命を全うしていきたいと思います。