道楽~人生体験~

人が生きるという実感とはどのような体験をしているかということです。

体験こそが人生であり、体験の価値を知るものだけが人生の価値を知るように思います。

人は様々な体験を通して生長していくのは、体験が夢を膨らませてくれるからです。

例えば日々というものは、色々な出来事が実は起きています。気づいていないだけで、好奇心さえ開いていれば本当に無限に無数の出来事に囲まれているのです。しかし日々に流されてしまうとそういう出来事に気づく感受性も衰えていくものです。

何かの出来事が起きるのに対して、その出来事は何だろうと意味を求めて前向きに主体的に取り組む時は好奇心が揺さぶられ新たな発見に出会います。しかしそれとは逆に日々に出来事が起きているのにそれを流してしまうとだんだん感覚が麻痺してきて気が付けば無関心になってしまうのです。

それはとても勿体ないことのように思います。

出来事とは、別に無理に起こそうとしなくても起きているものです。ですからわざわざ遠くにいかなくても、別に新しいことを無理にしなくても、今ある出来事を真心をもって取り組んでいけばそこにはいつも世界が開いてくれていることに気づき感謝できるのです。

体験の尊さというのは、人生の楽しさを与えてくださる尊さのことです。

何が起きるかわからないけれど、ワクワクドキドキと楽しくなっているのは流されないという強い意志、また一度きりの人生なのだから流れないという主体性があってのことなのでしょう。

自分の思い通りにいかないことばかりですが、その反面、自分の思い通りにならないことが面白くてたまりません。そういう前向きな生き方の中にこそ、真の人生の歓び、仕合せ、感激があるように思います。

一生青春、一生感動、掛け替えのない唯一の生であるからこそ来たものを選ばずに全部を有難く受け止め、一つ一つをご縁のある方々と一緒に歩んで大きく夢を育てていきたいと思います。

体験させていただけることに感謝しつつ、世の中のスピードに負けないくらいの努力と精進と内省で道を楽しんでいきたいと思います。

行動指針

カグヤには行動指針というものがあります。これは以前、クルーの皆と語り合い話し合ってどのような会社にしようかと考えて出し合ったものです。

そこにはこうあります。

「本音で語り、本質を追及する」
「関わる全てに尊敬・尊重を忘れない。」
「明るく楽しくイキイキと、心身共に健康に。」
「御互いを信頼しあい、高めあい、協力を惜しまない。」
「信念・理念に誇りを持って、夢の実現に向かい続ける。」

という五つの項目です。

これは、自分たちがどうありたいか、自分たちが行動するときにどういうモデルを示していこうかと語り合い一つ一つを精査していきました。

そもそも行動指針とは何かといえば「基本」のことです。

基本とは例えば、茶道や武道の基本も心得や型からですがもっともはじめに身に着けることということになります。それはとても地味で目立たないものですが、それがあってはじめて他のことができるというものです。

基本ができていない状態でいくら何かをやろうとしていても、それは付け焼刃になるだけで何も為し遂げることができません。自分に矢印を向けてまず自らの行動が基本に忠実であるかどうかを見直すというのが行動指針になります。

人間にとっての基本は人格形成のように思います。

以前、師から教わったものに「自由は人間ができていないと使いこなせない」というのをお聴きしました。いくら自由の環境を与えてもらっていたにせよ、どれだけ好きなことをやってもいいと言われても、自分自身の人格を高めていなければそれは活用できないということです。

人は何かしら決められた中で動いている方が楽です。指針などなくとも、規則があればそれだけで自由になった気がするものです。何も規則がない、誰からも何も言われないということほど不自由なことはありません。一般的な日本の社会ではガチガチに規則やルールが秩序よく整理されていますから考えなくても合わせていけばある程度は自由です。

しかし尊重し合う社會に入れば、その自由を守る一人としての責任が発生してきます。そうすると、自分で周りの自由を奪わないように、他人に迷惑をかけないように自らの行動を律していく必要があるのです。

自由には責任が伴うのは、その行動を正すのは自分次第ということでしょう。

常に自主自立の心というのは、自らの人生の主人公を自らで育てあげていく責任のことです。
人生の課題もまた其処にあるように私には思えます。

有事のときにも無事のときにも、ふり返りを怠らず常に行動指針に照らして今の自分はどうであるのか反省し続けていきたいと思います。

 

人生

自分の人生というものを考える時、自分をどのように守っていくかは自分次第でもあります。

色々な環境下の中、時として自分の生き方というものを見つめる時があります。

それは自分はどのように生きて活きたいか、そして自分は何を大切にしているのかを自覚するのです。そうして自覚したものが、何よりも大切であるならばそれを守ろうと人は真剣に人生と正対していくのでしょう。

その時、その時に同じような生き方を貫いている方々に出会えるというのは幸運かもしれません。

人はどこか自分で先に生き方を妥協して周囲に迎合する方を選んでしまうと、その時点から自らの性格が歪んでいくものです。本来の性格が素直にならないのは、自分の遣りたいことをやらなくなるからでしょう。

自分の遣りたいことが保障されるということの価値というものは、自分自身の存在を丸ごと認めてもらえる人と環境があるということです。

そういう人に出会い、そういう環境の中に過ごさせていただけるということは自分という人生を生き、そして自分という生き方に活かされるという自然とのつながりに感謝できる今に棲んでいることを実感するのです。

人は自分というものを守るのは結局は自分自身なのかもしれません。

なぜなら、人は産まれてきては心の奥底で感謝があるからこそ自分のいのちを何かに役立てたいと祈るからです。その祈りをやめないからこそ、生き方に出会い、生き方を優先しようとする勇気につながるのです。

思い返せば私も師と出会い、大切な生き方を守っていただきました。
そしてその上で、自らの性格を直すための人生の課題をも同時にいただきました。
今度は自分の周りの生き方を守ることをさせていただけるようにもなりました。

このような邂逅をいただけるのは、全てにおいて「生き方」を優先できたからかもしれません。

自立していくということは、自分の脚でちゃんと立つということでしょう。
今は足取りが覚束なくてもいつかは必ず立派に自分で立てる日が来ます。

いつまでも安心基地になり子どもが巣立っていくのを応援していきたいと思います。
有難うございます。

 

社會人

人間の自由というものを考えてみると、色々と想うことがあります。自由とは何かといえばこのブログでも以前書きましたが、自由自在の自由です。

決して不自由か自由かの時に使われるものではなく、その人があるがままに自由自在でいるということ、言い換えれば自分らしさを持ち自分の人生を歩んでいるうということです。

今の時代は、外圧的に様々な規則やルールを押し付けてはその人の自由というものを奪っていく仕組みがあちこちに張り巡らされています。特に学校になると、理由も教えず説明もせずに無理に強要し、規則を破れば矯正させるという非常に厳しい状況をつくりあげています。

大人の管理の下、如何に正しい行いをさせるかということに焦点が置かれているように思います。しかし、動物でもそうですが力による抑制というものは長く維持できるものではありませんし、本心から行うわけでもなく、時間が経ち環境が変わればすぐに忘れてしまうのです。

だからこそ内省をし、本人が自覚し自明するまで自らが実践をしじっと待つという覚悟が必用なのかもしれません。今は、時間がない時代ですから短い時間内であれもこれもと膨大な量の知識や規則を詰め込もうとすれば必然的にガチガチに余裕のない状況に陥るのは火をみるよりも明らかです。

その中で子どもたちは、自由を渇望します。しかしこの自由とは、不自由から解放されたい自由であり本来の自由ではありません。私は幸運にも素晴らしい師と出会い、本質を見極め自分で考えて自分で行動することの尊さに気づくことができましたがそういうご縁をいただけるような方に回り逢えるというのは今では稀なのかもしれません。

これは社會のあり方でも同じですが、権力を持ち、強烈な管理の中で人を束縛すればするほどにそれはより一層弱い立場の人達へと圧力がかかるものです。いじめの構図も同じく、余裕のなく心が閉塞するような状況下では強いものは弱いものを虐げることで自らを守ろうとする構図から発生するのでしょう。

結局はそういう社会から逃げ出すために人は、自分に嘘をつき、他人のせいにするような脳みそになっていくのかもしれません。本能は素直だったからこそ、人間社会のそういうことに流されるから自分を見失うのかもしれません。

社會とは何か、社會をどう産み出していくか、それは自分の責任です。

どのような社會にしていきたいか、どのような社會人になりたいのか、それが学ぶ目的なのかもしれません。社會に出たら、色々なことを自分なりに自分のやりたいようにできるためには、様々なことの本質を見抜き、勇気を出して世の中のためにと貢献し共生していく必要があるように思います。

つまり以上のことを一言で締めくくるならば尊い社會の一員として、「全ての問題を自分の問題」として捉えられているのかということです。

この他人事という刷り込みは今の社会ではなかなか取れず、そのために私のライフワークのほとんどがその問題に集約されてしまっているのです。

最後に本当の主体、本来の主人公、自由自在とは、自己実現のことをいうのでしょう。
正直な人たちが安心して暮らせる世の中のために理念を実践していきたいと思います。

 

 

練習の意味

人は目には見えませんが「思い」というものを持っています。その「思い」にどのようなものが入っているかでその入れ物は全く異なるものになっています。

例えば、何かを習得するためには練習というものを行います。技術を学ぶことは練習ですから練習を積み重ねることで技術は上がるのですが、その練習も単にテクニックだけが上達しても上手だねと言われるだけで感動したとはなかなか言われないものです。

人が感動するには、その技術に心や魂が入る、つまりは「思いが入っている」かどうかがとても大切になるのです。

ここでの思いとは何かと言えば「祈り」のようなものです。

何かの仕事でもいいでしょうし、人生の中で行う何かのアクションでもいいでしょう、そこには何のために自分がそれを行うのか、そして自分が何の御役に立ちたいのかという初心があるはずです。

それを毎回思いだし、その思いを毎回入れて行うことが真の練習になり本物の技術を習得していくように私には思います。

練習というのはできるようになるために、形だけを似せたり、もしくは表面上がある一定のレベルになったからいいというのではなく、本質的に行っているからこそできるだけではなく「なる」ことができるのです。

そうなるにはそうなる理由があるということですが、そこにはその人の確かな「思い」が入っているのです。そしてこの思いを積み重ねて練り上がっていくものが信念です。これは一朝一夕ではならず、長い時間をかけて奥深い技術を学びつつ、生涯習得するための精進し続ける道であるのでしょう。

道に入るというものは、克己の技術を鍛錬することかもしれませんが大切な一日を思いを入れて実践し、信を醸成しつつ自らを高め続けていきたいと思います。

野生の直観~柔軟性と調和~

私たちは本来、自然界の中で野生に栄えた生物です。

自然農をはじめ田畑に出ても、植物や虫たち、それぞれが自由自在にあるがままに生きています。そのものがそのものらしく生きているのを邪魔しないでいるのと同時に、そのものの特性を活かしつつ共生するために調和をはかっています。

自然界というものは、常に相手を変えるのではなく自分を変えることで調和するのです。

長い時間をかけて、御互いの持ち味を如何に活かせるかをそれぞれに活かそうとします。

それは自然界が活かし活かし合う関係で成り立つからなのでしょう。

自然界から離れるというのは、自分の思い通りにしようとすることかもしれません。進化が停滞し退化するというのは、自分の方を変えようとしないことをいうのでしょう。

自分を変えるには、相手の持ち味を善いと感じる観察眼や心から周囲によって自らが活かされるという真理に気づくことなのかもしれません。

今の人間社会の中で生きれば、それぞれが自分の思い通り生きることを自分らしくあるかのように錯覚して報道します。しかし実際の自分らしさというのは、あるがまま、言い換えれば難に対しても柔軟性を以て対応できるということなのでしょう。

つまりは、自分が周囲を尊重しているからこそあるがままということです。

昨日から小笠原流流鏑馬という古武道を習いはじめましたが、馬との阿吽の呼吸からですが自分の中の筋力や体幹がまだまだ合わせられずあちこちが痛みます。一つのことをするにも痛みを伴うのは、それだけ自分が成長しているあかしであり鍛錬しているからこそ進化できるのです。

新しいことに対する筋力は常に痛みを伴いますが次第にその痛みは新しい自分、新しいステージに向けての準備段階なのです。

仲間が新しいことに挑戦するのを一番身近で見守る自分が、何よりも挑戦することを触発されたようにも思います。子ども達のモデルになるために、自らが変化の源になりたいと日々に願うばかりです。

プロセスを楽しみ、自らの変化から自然との共生、野生の直観を磨いていきたいと思います。

人と道具

人は自分の目線を内省することで自分がどのような眼差しでいるかをチェックすることができます。自分の眼差しというのは、世界を自分がどのようなモノサシで観ているのかをチェックするということです。

自分自身がどうなのかということは省みることはほとんどされず、実際は外側の世界のみを自分の都合で変化させようとすればするほどに眼差しは思いやりではなく独りよがりになっていくものです。

例えば、道具の一つに剣があります。剣を扱うのにも、殺人剣と活人剣というものがあります。本来、人を殺傷する目的のための刀剣が、使い方によって人を生かすものとしてはたらくことがあります。つまりは道具は使い手の心によって如何様にもなるということです。

道具ばかりを善くしようといくらしても、その使い手が自分の意識を変えようとしなければどんなに名剣と言われるようなものでもそれは殺人剣になってしまうものです。

同じく大人の都合で儲かるからと子どもの主体のことをよく考えて自らを省みることもなく、簡単便利な道具をさもそれをやればうまくいくと謳っては販売しているような道具だけで自分たちがよくなるはずはありません。

使っている道具はあくまで道具であり、それをどう活かすかは自分自身によるからです。

そして道具が本物であればあるほどに、自分の実力を磨くしかありません。例えば、大工さんの鉋に電気鉋というものがあります。電気鉋ができたおかげで素人でもすぐに使えるようになりましたが、本来の鉋は職人たちの姿勢や心構えが備わっていないとうまく活かしていくことができません。

手間暇がかかるものですが、その心を何よりも大切にしていくのがその道を志す人たちの誇りでもあるのです。結果が同じであれば簡単便利なものでもいいという考え方は、道具次第ということになりかねません。

人が道具を活かしていきますが、道具もまた人を活かしていきたいと願っているのです。それが人と道具の真の関係のように思います。どのような眼差しで道具を開発した人たちがいたか、そしてその道具を使いたい人がいたか、道具と人との関係というのは同じ志、同じ理念であるからこそ活かせるのかもしれません。

信念を以て、道具そのものの役割が果たせるようにあるがままを受け止めて難関に立ち向かっていきたいと思います。

危機意識

昔のように里山のような社會があったころと違って、人為的に人間が加工し創造した社会の中では安心安全という定義も変わってきているものです。

今の時代は、安心安全を人為的に造りだしています。自然を征服できるという考え方のもと、防波堤を設け、ダムを造り、道路を舗装し、避雷針用意しと、できる限りのことをして防災をしています。

しかし実際は、ことごとくその人為的に造ったものを自然は破壊していきます。あの釜石でもギネスブックに登録されるような巨大な防波堤がまったく太刀打ちできずに破壊されました。原発の安心安全神話もあっという間に打ち砕かれましたから人間が言っている安心とか安全とかは如何に当てにならないかと感じたものです。

人災というのは、想定外だったという言い訳とともに語られます。

言い換えれば、自然よりも人間の方が優れていると感じていることが人災の原因かもしれません。人災というのは、人間の傲慢さから発生するように思います。人間が一番と勘違いしたり、人間がもっとも賢いのだと思い違いをするから、そのしっぺ返しに遭うように思います。

人間が謙虚で感謝をしていれば、自然の法則に沿いますから思い違いをしたり勘違いをするようなことは起きません。常に畏怖と畏敬を忘れずに、危機に備え万が一のことを考えて考動することを忘れません。

しかし平和ボケしてしまい、人間が平和だと思い込み刷り込まれた中に染まってしまうと目の前まできている危険にまで疎くなってしまうのです。世界情勢も然り、自然現象も然り、今、どのようなことを起きているのかという微細な予兆も感じ取る力が喪失してしまいます。

自然にいると思い通りにはならないものですが、人間社会の中だとあるていどは人間の思い通りにいくものです。天変地異なども、自分たちが体験していないことは想定しないのでしょう。本来の想定外とは想定しないことが起きるということですが、想定しないことを想定しないというのがもっとも危機意識がないということになるのです。

自然を感じながら生きるということは、自分の不自然に気づく力です。

それは何かきっと大きな教えが入っていると感じる力や、何かこれは啓示であったり自分を直せという警告なのだと、常に素直に謙虚にいつも内省を続けていれば自ずから自然に照らして自分の姿勢を戒めていくことができるように思います。

自分の姿勢が人間都合になることがもっとも危機意識が欠如することなのかもしれません。

活かされることを忘れてしまえば、生きていることすら忘れてしまいます。

空気ひとつ水ひとつ造りだせず、私たちはそういうものの恩恵の中で生かされているという真実を思い出せないというのは当たり前のいのちにも気づかないということなのでしょう。

自然という当たり前ではない何か偉大な有難さの中にいることに気づくのが地球上でいのちを共有する私たちの本来の姿勢なのでしょう。

子ども達のためにも未来をつないでいけるように災害というものの本質を見極めて、自然から学び続けそのモデルを実践していきたいと思います。

気性と天性~天気との調和~

人間は、自分の成長を邪魔するのに気性に振り回されるというのがあります。この気性というのは、意地のことで自らの感情塊のことです。

成長を邪魔してしまう代表に他人のせいにするというのがあります。自分にとって都合の悪いことをつい誰か他人の性にしてしまうことで、本来の自分の性に気づけなくなります。もしくは自分のせいだと自分を過度に責めすぎるのもそれは単に自分の性だからと仕方がないと努力して改善することもせずに諦めてしまったりします。

本来は、気性というものは気象と同じく変化融合を繰り返すものであり、天気と同じように晴れたり曇ったりとバランスを維持しているものです。そういう天候の変化の中でも、どのように自分側が変わっていくか、自分側を内省していくかでその気性とのバランスを維持していくことになるのです。

例えば、他人のせいにせず、自分のせいにもしない、自分を常に高め続けるというものがあります。これを私は内省と呼び、自分に省みて心を磨けば自ずから人格が高まっていきます。人格が高まれば、穏やかな判断がどのような状況下においても心静かにできるようになるからです。

実際はとても難しく、できるときとできないときがあります。特に体調の変化や精神的な辛さ、心の痛みなどに反応してとても心静かにということにはなりにくいものです。人は自分のことを一杯なればなるほどに頑なになりちっぽけになってしまいます。

そういう時こそ、自分以外の周りに支えられていることへ感謝し行動できたり、誰か自分と同じような痛みや苦しみを持つ人たちの役に立ったりとできるチャンスも来ていると考えるのです。

すると、自分の気性が環境と合間って自分がブレナイで理念や信念を実践できるようになってくるのかもしれません。実際は、目ばかり発達してしまっている今の社会ですから心が出にくいですが心はいつも思いやることで目を開いていくように思います。

そしていつも心の眼が開いていく状態でいるには、内省し続ける努力によって心を高めていくしかないように思います。内省するというのは、基盤に感謝が根付き、尊敬が育ち、信頼が実になり、努力が花開き、真心の種を蒔くというように人間を高めていけます。

内省の価値というものは、自分自身の本来の天性を活かそうとする働きなのかもしれません。

気性も天性ですから、その天性を活かすにはその心が高め続ける努力があってこそなのでしょう。天気の調和も自然ですから常に自他を一体に思いやり、日々の実践を積み上げていくことで心身調和していけるように精進していきたいと思います。

 

大切なことを忘れないDAY

昨日は、理念から3年前の震災の教訓をふり返るために「大切なことを忘れないDAY」として防災や教訓などを研修しました。

研修では「想定外」についての話し合いを中心に、釜石での事例や、釜石の子どもたちの実績などをDVDを使って学び合いました。

その中で気づいたことがあったのですが、人は想定外というものを考えるのに、想定内とか想定外とか言っていること自体が「想定」しているということだということです。

想定というのは、考えられる範疇での出来事ということで実際の災害は自分の考えが全く及ばないほどの巨大な存在というのが本当の意味で想定できない=想定外ということだということです。

それぞれに想定外の出来事について語り合いましたが、想定内のことばかりを話している姿に如何に自分たちが平和ボケしているのかを痛感します。

本来は、自分のいのちを自分で守ろうなどということは自然界の中では当たり前すぎて本能でいつもそれを発揮して生き残っているのです。しかし実際の今の世の中は、そういうシンプルな自然の姿すら分からなくなるくらい人間が自然から隔離した文明社会の中でどっぷりと安全や安心に浸かってしまっているのです。

そういう文明社会が壊れるような災害があった場合は、いのちを守ること以外できないはずですがそういう目にあったことがない今の世代ではぬるま湯の中でギリギリの感覚というものを喪失してしまうのでしょう。

人は本当の危機を肌で感じながら生きるのは自然への畏怖や畏敬を忘れないということです。神道では神様という偉大な存在に畏み畏み敬い常に謙虚にと私たちは日常から生きてきましたが今では自然を征服するという発想のもと、人為的に操作された人間中心の傲慢な暮らし方の中でそういう畏怖畏敬の心もなくなってきているのでしょう。

自然から離れるということが一体どれだけ恐ろしいことか、地球に住まう私たちが地球と住まうことを忘れてしまうところに文明の崩壊、否、人間中心の限界を感じてしまいます。

以前、「直視」ということをブログで書きましたが直視しないからいつまでも傲慢に胡坐をかいてしまうのでしょう。直視というのは、素直でなければできず謙虚でなければ視れません。自分の今の生き方が自然からどれくらい離れているのか、自然というものを常に意識して生きているか、あの教訓から学んだ本質は自然からの警告であったはずです。

人間が傲慢になって人為的に造りだしたものが、自然に破壊されるのを目の当たりにして自然の中で生きて活かされているのだから自然と共生していく方を優先しよう、あらゆる生きものたちとともに地球に活かされていることに感謝していこうと、初心を忘れずにいることが何よりも後人へつないでいくことではないかと私は思います。

最後に社内では、災害の教訓から新たに5つの鉄則をつくり今後実践することにしましたので紹介します。

【防災鉄則の5箇条】

第1条 危機意識の欠如、備えを怠るな

第2条 自然への畏敬を忘れるな

第3条 固定概念に縛られるな、最善を盡せ

第4条 自分のいのちを守ってから他人を助けよ

第5条 ピンチの時には野生の勘を取り戻せ

子どもたちに豊かな自然風土と幸福な暮らしを譲っていけるように実践を積み上げていきたいと思います。