人が本心本音を聴けるというのは、御互いに本心本音が話せる状態でなければ聴けません。
聴くというのは、自分がまずその状態であるかというのを省みていなければ分からないように思います。自分が聴くということは、先入観や自分の思い込みで相手のことを思わないことからはじまります。
先に相手のことをきっとこうだろうと思ってしまうことで聴くことができなくなるのです。
本来は、きっと何かあるのだろうと相手を尊重して自分を入れずに傾聴するとき相手の本心や本音を察知できるものです。しかし実際は自分の中の考えを正当化し、自分が何かをしようとすることを優先するから相手のことを理解するよりも先に相手に自分がどうかしようとすることばかりに思いが執着してしまうのです。
聴くというのは、まず聴くことに徹するということで聴く前に自分がこうしてほしいとかああしてほしいとかの要求を持たないということなのです。
自分の要求を持つと、聴く耳が澄まされていきません。相手に要求し相手を動かそうとするばかりに自分の思い通りになってもらおうとするきき方になってしまいます。耳が澄まされていないということは、見ているものも澄まされていないということなのでしょう。
相手のことを受け止めるというのは、丸ごと受け止めるということです。
それはどんな事情があったにせよ、どんな複雑な事実が存在したにせよ、きっと何かがある方を信じるということなのです。自分の思い込みや刷り込みで一方的に遮断しないということなのです。
見守るということは、安心基地になることだと師は教えてくださいましたがその実践は本当に難しいものです。自信が本心のままでいるというのは、正直さ素直さというままでいるための根底に勇気の土台、その覚悟がずっしりと安着する必要があるように思います。
最も身近な存在への真心の実践、かんながらの道を肝に銘じて和していきたいと思います。