自分が人と違う道を行くとき、それを信じてくれる存在は心の安息になります。
集団の中で育つことで、集団に合わせる勉強をずっとしてきました。
みんなと同じになりなさい、それが幸せということを教わりました。
一斉画一化された枠組みのレールの上から如何に外れないかということを優先され、外れれば修正されるという繰り返しの中で自動的に思考もできあがってきました。若い時はそれが嫌で嫌で仕方がなく、アウトローな方向へと進み、逆らったようなことばかりをしていました。
それが社会人になり、より鮮明に社會に迷惑をかけないという名のもとに常識的な仕事をするように教えられましたがやはりそれもできず、自分の思い通りにやろうと苦労しては、何度も涙を流してきました。
そのうち、孤独になり、何度もやめようかともうここで諦めようかと思うたびに、信じさせてくれる存在に出会ってきました。その人たちの生き方やその人たちの言葉一つ一つに心から励まされているから今も此処に自分はいます。
きっとそれは自分の道を歩むから運が善いのだと思います。この時の運の善いの意味は、自分の人生を活きた素晴らしいご縁と出会いそのものにあるがままの感謝をしているのです。
自分を信じてくれる人がいること、自分と同じように信じている人がいること、そして身近で自分のことをどんなことがあっても信じてくれる人がいるから心が安心して信が強く育つのです。
今では仲間が増えました。最初は、ほとんど信じてくれなかった人たちで常識や世間の都合を優先し自分の言うことなどは夢物語や理想、もしくは外道だと相手にもしてくれませんでした。しかしそれでも少しずつ根気強く仲間探しをしていたら今では掛け替えのない仲間たちに囲まれて歩むことができているのです。
有難さというのは、この道すがらに出会う親友たち、同胞たち、仲間たちの存在そのものです。人生は、畢竟、自分の生き方に同調する人たちとのめぐり逢いで彩られるものです。
今いなければ探せばいい、信じていれば仲間は必ずいつかは見つかる。
信じて諦めず、自分の脚で一歩一歩すすめばいい、それが私からのエールです。
有難いご縁が人生道には沢山あるのだから、一緒に焦らずゆっくりと歩んでいこう。