人は社會の一員として認められることで人権を獲得していくものです。
人権というものは社會の中に存在するものであり、無人島で一人で生きるなら別に人権などというものは必要ありません。
この人権が守られないとはどういうことかと言えば、社會から無視され否認されるということです。これら人権無視がなぜ起きるかといえば、一方的な価値観を押し付けてそれを守らせようとするときに個人の尊重を蔑にするということで発生するのです。
それが発展して、自分のことを自分で決めることを与えない、つまりは自己決定権すらない子どもたちが世界にはたくさん存在してしまっているのです。これは子どもだけではなく大人でもそうですが、自分で自分の人生を生きる権利をはく奪され誰かの言うことを強制的に従うようにと利権を優先されているのです。
学校などでも、無視が流行るのは本来はその人の個性や存在が尊重されるはずのものが認められず、何かその人が人権を発揮しようとするとき抑え込む作用が働くことでいじめの構造ができあがるのでしょう。
一つの価値観で無理やりに教育することは、子どもの権利条約に違反しているのです。
子どもは自らで生きる権利があるというのは、子どもは自らの生き方を尊重された存在だと認める事が大前提でしょう。その大前提を無視し、大人の都合で子どもを無理やり変えさせようとするのは何か強い圧力を感じます。
そしてそれは大人たち自らを苦しめている原因であることにも気づきます。
学校とは、そこで働く人たちそのものがもっともその苦しみを受けるはずです。
社會から隔離するのをよしとせず、社會とつながることが学校を改革する根源かもしれません。大人になって学校から実社會に出て観たら、あらゆるものが違っていました。それに海外に留学し海外で働けば、なおさら学校でのことはまったく役に立ちませんでした。
そう思う時、大人側の無理解こそが子どもの無理解であったことに気づきます。如何に子どもを理解するのかというのは、如何に自らを理解するかということなのです。世界に目を向けるということは、学校以外の世界が社會には広がっているという現実を受け止めるということでしょう。
このままでは社會というものを誤解した子どもたちがそのままおかしな社会を無理に創りあげてしまうかもしれません。教育に関わる者は、常に社會というものを直視し、その社會を担うものであることを決して忘れてはいけないと心から戒めました。
最後に子どもの権利条約の素になったヤヌシュコルチャックの言葉を紹介します。
「子どもを理解することは、大人自身が自分をいかに理解するかである。子どもを愛するとは、自分自身をいかに愛せるかということ。人は誰しも大きな子どもなのだから。」
今こそ、大人たちからまず自らに気づくモデルを示すときです。
機会を活かして学びを深めていきたいと思います。