ムラ社会という言葉があります。
これを辞書で調べると「1 有力者を中心に、上下関係の厳しい秩序を保ち、しきたりを守りながら、よそ者を受け入れようとしない排他的な村落。村の決まりに背くと「村八分」などの制裁がある。」「2 同類が集まり、ピラミッド型の序列の中で、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりするような閉鎖的な組織・社会を1にたとえた語。談合組織・学界・政界・企業などに用いる」(goo辞書)とあります。
強烈なピラミッド型組織で、一方的に秩序を維持する集団ということでしょう。
絶対的秩序を守るのがムラの存在であり、秩序そのものの人がムラ人という定義です。
しかしこの村という考え方が悪いというわけではなく、この村社会が悪い方へと使われるのは思いやりで見守るのではなく、保身や利権を守るために強制的に管理するときにまるで「いじめ」のようなものが発生してくるから問題なのです。その人らしさを蔑にする組織では希望を持てません。
本来の村というのは、相互扶助で成り立ちます。お互いに力を合わせて生きていくために、御互いに譲り合い見守りあいながら生活をする共同体です。その中で個が引きたっても、それを寛容し村が活かしていけばいいのです。
しかし軍隊のように徹底して組織を管理すれば、それは義務や権利ばかりをそれぞれが主張しあう秩序だった共同体となります。その中での自分らしさを出すのは、組織の危険因子ですから村全体でそれを排除しようとするのです。
つまりは村がどうかではなく、個が尊重される集団か、それとも集団を優先し個は抹殺する集団かではその個の扱われ方も異なっていくのです。
ありのままの個を認めないという社会がムラ社会です。村の掟や制約に従うことは大前提で例外は認めないということでしょう。学校も病気や法事以外は休めないという強迫観念、逃げ場のない無言の圧力に個性を埋没させて集団の一員になるしかないと諦めてしまうのです。もしもそうではなく、「なぜ?どうして?本当は何?」などと考えてしまうとそのことに気づきますからいよいよ逃げ場がなくなっていくのです。表面上の逃げ場にあわせることは、ムラのルールに従うことです。本来の逃げ場の定義は、安心基地、つまりは自分らしくいてもいい、あるがままの方がいいと理解してくれる場所のことです。
有無を言わさず理由も伝えず、一方的にただ“これをやりなさい”と一斉画一に一律に全員でそれを実行する義務を押し付けられる。
こんなことを秩序といっているのは、まったくの人権無視であろうと思います。管理者というものは、自分が正しいと思い込めば従うのは当然だという発想を持つのかもしれません。この国は立場や肩書が優先され、物事の本質を考えないでいた方が楽だというような風潮をつくりだしています。
大人にとって都合がいい子になってもらって安心というのは、大人が不安だから管理したいだけでしょう。子どものとってどうかということから社會を観直す必要を感じます。
そうしてみると、あるがままでもありのままでも受け容れてくれる場所があるということが人が安心して働くことができる故郷でありそれが村であり、国であり、そして「家」であるはずです。かつて聖徳太子が実現したような大和の国家の理念が我が国にはまだ存在しています。
本来の安心村社會を創造するためにも、そのままでいい、あるがままでいい働き方と生き方の実践を創意工夫と勇気をもって今後も続けていきたいと思います。
子ども達の安心できる一家になれるよう、その人らしさを認め大切にする実践を積み上げていきたいと思います。