昔のように里山のような社會があったころと違って、人為的に人間が加工し創造した社会の中では安心安全という定義も変わってきているものです。
今の時代は、安心安全を人為的に造りだしています。自然を征服できるという考え方のもと、防波堤を設け、ダムを造り、道路を舗装し、避雷針用意しと、できる限りのことをして防災をしています。
しかし実際は、ことごとくその人為的に造ったものを自然は破壊していきます。あの釜石でもギネスブックに登録されるような巨大な防波堤がまったく太刀打ちできずに破壊されました。原発の安心安全神話もあっという間に打ち砕かれましたから人間が言っている安心とか安全とかは如何に当てにならないかと感じたものです。
人災というのは、想定外だったという言い訳とともに語られます。
言い換えれば、自然よりも人間の方が優れていると感じていることが人災の原因かもしれません。人災というのは、人間の傲慢さから発生するように思います。人間が一番と勘違いしたり、人間がもっとも賢いのだと思い違いをするから、そのしっぺ返しに遭うように思います。
人間が謙虚で感謝をしていれば、自然の法則に沿いますから思い違いをしたり勘違いをするようなことは起きません。常に畏怖と畏敬を忘れずに、危機に備え万が一のことを考えて考動することを忘れません。
しかし平和ボケしてしまい、人間が平和だと思い込み刷り込まれた中に染まってしまうと目の前まできている危険にまで疎くなってしまうのです。世界情勢も然り、自然現象も然り、今、どのようなことを起きているのかという微細な予兆も感じ取る力が喪失してしまいます。
自然にいると思い通りにはならないものですが、人間社会の中だとあるていどは人間の思い通りにいくものです。天変地異なども、自分たちが体験していないことは想定しないのでしょう。本来の想定外とは想定しないことが起きるということですが、想定しないことを想定しないというのがもっとも危機意識がないということになるのです。
自然を感じながら生きるということは、自分の不自然に気づく力です。
それは何かきっと大きな教えが入っていると感じる力や、何かこれは啓示であったり自分を直せという警告なのだと、常に素直に謙虚にいつも内省を続けていれば自ずから自然に照らして自分の姿勢を戒めていくことができるように思います。
自分の姿勢が人間都合になることがもっとも危機意識が欠如することなのかもしれません。
活かされることを忘れてしまえば、生きていることすら忘れてしまいます。
空気ひとつ水ひとつ造りだせず、私たちはそういうものの恩恵の中で生かされているという真実を思い出せないというのは当たり前のいのちにも気づかないということなのでしょう。
自然という当たり前ではない何か偉大な有難さの中にいることに気づくのが地球上でいのちを共有する私たちの本来の姿勢なのでしょう。
子ども達のためにも未来をつないでいけるように災害というものの本質を見極めて、自然から学び続けそのモデルを実践していきたいと思います。