人は目には見えませんが「思い」というものを持っています。その「思い」にどのようなものが入っているかでその入れ物は全く異なるものになっています。
例えば、何かを習得するためには練習というものを行います。技術を学ぶことは練習ですから練習を積み重ねることで技術は上がるのですが、その練習も単にテクニックだけが上達しても上手だねと言われるだけで感動したとはなかなか言われないものです。
人が感動するには、その技術に心や魂が入る、つまりは「思いが入っている」かどうかがとても大切になるのです。
ここでの思いとは何かと言えば「祈り」のようなものです。
何かの仕事でもいいでしょうし、人生の中で行う何かのアクションでもいいでしょう、そこには何のために自分がそれを行うのか、そして自分が何の御役に立ちたいのかという初心があるはずです。
それを毎回思いだし、その思いを毎回入れて行うことが真の練習になり本物の技術を習得していくように私には思います。
練習というのはできるようになるために、形だけを似せたり、もしくは表面上がある一定のレベルになったからいいというのではなく、本質的に行っているからこそできるだけではなく「なる」ことができるのです。
そうなるにはそうなる理由があるということですが、そこにはその人の確かな「思い」が入っているのです。そしてこの思いを積み重ねて練り上がっていくものが信念です。これは一朝一夕ではならず、長い時間をかけて奥深い技術を学びつつ、生涯習得するための精進し続ける道であるのでしょう。
道に入るというものは、克己の技術を鍛錬することかもしれませんが大切な一日を思いを入れて実践し、信を醸成しつつ自らを高め続けていきたいと思います。