歩続実践

世の中には色々な本が出版されています。

特に今の時代は情報が溢れんばかりに氾濫している時代ですから、常に文字の中で生活しているともいえます。実際に体験しなくても、本を読めばある程度は体験したかのような妄想を抱くものです。

しかし実際の現実では、何も体験したわけではなくきっとこうだろうと思い込んでいるだけなので遣ってみるとほとんど思い通りにいかないものです。実際に何のためにということがぼやけると情報は自分自身の貴重な体験を奪ってしまうものになるのかもしれません。

二宮尊徳の夜話にこういうものがあります。

『下男が種いもを埋めてその上に「たねいも」と書いた木札を立てたので、ワシは門弟たちにこう言ってやった。 「お前たちは、大道というものが、文字の中にあると思って、文字の研究ばかりして学問だと思い込んでいるが、それは間違っているぞ。文字というのは道を伝える道具にすぎないんで、道そのものではないんだ。それなのに本を読んでそれが道だと思っているのは、誤りなんだ。道というのは本の中にあるのじゃなくて行いにあるんだよ。今あそこに下男が立てた木札の文字を見てごらん。この札によって種いもを掘り出し、それを畑に植え作ってこそ、はじめて食物となるんだ。道も同じことで、目印としての書物で道を求め、これを実行してこそ、はじめて道を体得することができるのさ。そうでないと学問といえない。ただの本読みというだけのことさ。」』(第七十一話)

頭で考えて覚えたものが実際の現実の理解をしたのではありません。頭で処理をしようとするのは、遣るということが大前提にないからです。全ての体験を道として真摯に実地実行しようと決心するならば頭で覚えず、心身に沁み込むように修めようとするものです。

それが大変だから頭で考えて済まそうとすればするほどに実際の実行や実践を怠るというのが人間の惰性なのかもしれません。心身をあまり甘やかさないことこそが、己に克つということなのかもしれません。

論語にあるように、如何に道は歩み続けるかということに尽きるのかもしれません。

日々の体験をどれだけ高めていくのか、決心したことにどれだけ真摯に実践するのか、そこには答えはありませんが答え以上の人生の手ごたえは実感できるものです。人の生長というものは、自然と同じく頭では分からなくても確実に自分が変わっていくのは実感しているのです。

できることや分かることばかりに重きを置かれた教育の刷り込みを祓い清め、変わり楽しむことに軸足を入れかえることで温故知新の創造の妙を味わっていきたいと思います。