人間は自分の中に罪悪感や負い目というのを持つと日々は怒りの感情に囚われるものです。
我というものは自分の思い通りかそうではないかという価値観に囚われます。そしてその感情が怒りを誘発するのです。いつも自分が中心になっている考え方に起点を置けば思い通りにならず上手くいかないと感じるものです。
言い換えればそれは自分の中にこうであるべきといった自分が思い込んでいる「正しい」という観念に縛られているのです。
自分の中に自分の思い通りにいくことが正しいと思えば思うほどに周りに矢印を向けてしまうものです。自己中心的というのは、周りも自分も正しいではなく、自分の正しいが最も正しいという価値観に執着しているのです。
本来は正しいかどうかよりも来ているものに正直に生き切ることで全体でバランスをとるものだから、何かがあれば常に自分の方を柔軟性を持って受け容れることができればいいのですがそれでは自分の思いどおりになっていないから自他を責め、自他嫌悪するのです。
例えば自然界は思い通りにならないけれど、それが必然的に全体を調和させているものです。自分にとっては都合が悪い天気であろうがどうであろうが、地球が全体調和をしようと天候が調整されていくのと同じです。人間の心身の調和でいえば、病気や治癒も同じく感情は波打ちますが自然(体)は全体バランスをとり回復するためにいつも働いているのと同じです。
以前、面白い体験をしたことがあります。
子どもが海の水が服にかかって海に向かってずっと怒っていた様子を拝見したときです。自然からすれば海は波打ちますから水がかかることは当然です、しかしそれに怒ってみても相手は自然ですからどうにもなりません。
自分は自分の世界からしか世界を見ていませんから、それが思い通りにならないということが理解できないのです。妄想や空想の中では自由でも現実は不自由です、その現実を自由にしていくのなら全体の叡智の方へと自分を合わせていく必要があるのです。
自他を一体として正しいと思えるにはとても時間がかかるもので一生ものの学びかもしれません。しかしそれが文化と文明の調和にもなっていくのですから私たちに課せられている大命なのかもしれません。
自然から学び、自然を尊ぶのは、そこに「本物の信」があるからでしょう。
世間では、狭い世界での正義を押し付けて自由というものも平等というものもその隔絶された組織の中だけで通用するようなものを強要し刷り込んでいきます。村社會のような隔絶された秩序の中で自由や自律もはき違えられています。
もっと視野を広げ、世界の大きさで捉えるのが自由であり自律なのでしょう。それは本物の信の世界の中の一員としての自分を捉えられるか、自然という全体調和した中にいることを自覚しているか、人間はいつでも自然から離れずに学び続ける必要性を実感するのです。
一度きりの人生ですし自然の中で活かされている大自分ですから、ご縁を信じて来たものを選ばずに丸ごと受け取り、どんな事件があっても許し、それが有難いと笑っていられるような感謝と御蔭様の真心の実践を精進していきたいと思います。