真心を学ぶ

人が何かを学ぶのに、学んだ気になることと学んでいるというものがあります。よく私は分かった気にならないという言い方をしますが、すぐに答えを聞いては知識で物事を知った気になることが分かった気になるということです。

本来の学問とは、いのち懸けで行うことのように思います。それは趣味で行うようなものではなく、全身全霊で日々に正対し、その中で気づいたことを深めて悟るというように一つ一つを自明自得していく必要があるように思います。いちいち考えるのは面倒な世の中になっているのかもしれません、最近では「考えすぎると禿げるとか、老けるよ」とか言われ考えないでいることのほうが価値があるかのようにも言われる世の中です。

論語に孔子がこのようなことを話しています。

『憤(ふん)せずんば啓せず。非せずんば発せず。一隅を挙げて三偶を以て反(かえ)さざれば則ち 復(ま)たせざるなり』

私の意訳になりますが、(本気で必死に情熱をもって学問を深めようとしないものに何を教えることがあろうか。四隅のうちの一つのことを示したら、残りの三つの ことを自発的に見つけ出すようなものでなければ決して本来の本物の学問を教えることなどできはしない)

つまり孔子の実践、思いやりや真心をはじめ本当に難しいことを学ぶのだからその道は大変奥深いということを言うのでしょう。今の人たちはすぐに学識ばかりを深めて本を読み知った気になりますが、本来はある目的のために継続する実践を通して内省し、学問を深めて内省して致めていくのが道理のように思います。

深さがあることを知ってこそ学びの道に入り、高めていく中でこそ道の楽しみを知るように思います。まさに人間学を学ぶ格物致知の境地です。

長い道のりと久しい年月をかけて学び、師友とともに歩む中で道に出会い脩己治人していくことが本物の学問のように思います。今の時代の学問をした習慣を如何に手放し、本物の学問に換えるかは真摯な真心の実践を積み上げていくことかもしれません。

日々の機縁を活かし、そのすべてを真心を学ぶチャンスに換えて学びを深めていきたいと思います。道楽がいただけることに感謝しています。

挑戦の本質

先日、失敗についてどれくらい怖いかという話を聞くとほとんどの人たちが怖いと手を挙げていました。漠然とした失敗に対する不安を若い人が持っているのは特にこの国の社会や教育の特徴かもしれません。

そのまま失敗について何が失敗かを定義してみようと話してみると、ほとんどの人たちは「やらなかったことへの後悔」が失敗であったと話していました。そして逆に成功は、「遣りきったことへの信頼」であることだと話していました。

つまりは、やりたいと思っていたことを途中で諦めてしまい挑戦しなかったことを失敗とし、怖かったけれども思い切って挑戦してやり遂げたことを成功だとしたのです。

言い換えれば、結果に対して失敗か成功かではなく、挑戦したかしなかったかということが振り返ってみると失敗か成功を決めているのです。心で決めたことを遣ることは自分への信頼と自信が持てるようになります。自分の心が決めたことを頭や感情で抑制してやらせてあげなかったとき人は自分への信頼も自信もなくなっていくのです。それを後悔というのでしょう。挑戦することが後悔がない人生を歩ませ、挑戦しないことが後悔の人生になると思うと、日々の選択をどうしたか、挑戦か逃げかの集積で人生全体の成果が決まるようにも思えます。

しかしなぜそのようになるのかは、挑戦するときの勇気が出てこないことに問題があるように思います。日本の社會では、何かを挑戦しても結果次第では非常に厳しくマスコミや周囲がその人を叩きます。ただでさえ結果が出なくて落ち込んでいるのに、そこに追い打ちをかけるように痛めつけようとします。

本来は、挑戦したことが尊いのだからと励ましたり勇気付けたりするのが見守る社會なのでしょうが失敗したら取り返しがつかないとか挑戦しても無理だとか脅すような声掛けの方が多いのです。もちろん人情からいうのでしょうが、個人主義が蔓延し自分のことで精いっぱいだから人の世話が見切れないからいうのかもしれません。

挑戦すると本人が決めたのだからみんなで支えるというのが温かい社會です。チームワークも同じく、その人の決心を尊重しみんなでそれを支える、それは時には厳しくもあり、時にはやさしくもありますがそういう仲間を持てることで人は挑戦を楽しんでいけるようにも思うのです。

石橋を叩いて渡らない人が増える中で、石橋が壊れても必ず助けるからと周囲がその人の決心を信頼し尊重する社會がある中で人ははじめて挑戦できるのかもしれません。

安心できる環境というのは、何かあっても信頼できる周りがいるんだと自分が思えるかどうかにかかっているように思います。善い仲間に巡り合うことも、何かあったら必ず助けてくれるという絆が持てるのも、ご縁のように思います。

子どもたちには自分のやりたいことを遣り切れる、言い換えれば夢をかなえられるような人生を歩んでほしいと願います。だからこそ、常識に囚われずに熟慮したら挑戦し、安心して石橋を叩いて渡ることができるような社會を広げていきたいと思うのです。そしてそういう挑戦をすることができる人こそ、社會貢献ができる人であるのは自明の理です。

畢竟、自分から仲間を信頼するというのは、自分自身の信頼を一つ一つ積み上げていくのに似ています。自分の決心を優先できる本物の勇気と強さを実践していきたいと思います。

境界の妙1

先日、白洲次郎と正子の武相荘を見学する機会がありました。

本質的で真理に沿った生き方を実践してきた二人の生きざまが、住まいのあちこちに観て取れ、自分の生き方にも通じるところがあり大きなインスピレーションをいただきました。

養蚕農家の住まいを買い取って、それを改修しながら使ったとのことですが考え方の基本に、「無駄のある家」の方がいいと定義しています。そこには「いくら細かく効率よくと. 計画しても住んでいくうちに必ず、不自由さは出るものです。 『造りこみ過ぎても人が建築に左右されてしまう。 だから田の字型の農家は都合がいい。」という考え方です。

これも生き方がでてきて共感できました。道を歩んでいく中で出会うものを大切にしていくということ、住まいも道具も、使い切ってこそ活かされてこそ意味があり真価があるという姿勢が観れます。

実はここ武相荘からは本当に多くのインスピレーションがあったので書ききれないのですが、面白い「書」が額に飾ってあったので今回はそれを紹介します。

福沢諭吉の晩年の「造化と境を争う」からの一文、「束縛化翁是開明」と書かれたものです。

これは「造化の神(自然)を縛り上げ、是を人間の生活の幸せの為に使いこなすこと、是が文明開化というものだ。」という意味で紹介されています。

これは分かりやすくいえば、ダムや川をセメントで固めて山や川を固定し続けて都市を維持するのに似ています。本来は、自然は天候の変化、地球の躍動に合わせて変わりつづけるもので先人たちは自分たちの方が自然に合わせて自然と一体になり共生に努めてきました。しかし、そういうものを力で押さえつけ縛り上げて使おうとする中に限界が来ると災害に見舞われどこまでが境界がということを学んでいたのでしょう。

その武相荘のトイレには、白洲正子の言葉で「日本人ほど文化文化とわめきながら、文化を大事にしない国民はいない。 それは、自分自身を大事にしない事に通じる」 と書かれていました。

武相荘には、その道具、そこでの暮らし、そこでの生活に思想や哲学が醸成されていて清々しい雰囲気が全体から醸し出されていました。私の目指す将来の家のビジョンもシンクロし、本当に有難い体験をさせていただきました。

最後に自称兼業農家と言っていた白洲次郎の人間味のある言葉がありました。

「世の中でいちばん好きで、いちばん尊敬しているのは母だ」

まだまだこの夫婦の生き方の結晶、その武相荘から学ぶことがたくさんです。
引き続き深めていきたいと思います。

社育

なぜ教育が必要なのか、その問いについて私なりの明確な定義があります。色々と賛否もあると思いますが、ここで書き記してみたいと思います。

そもそも教育とは何かというと世間では学力だの躾だの評価だの色々と語れます。それは何か知識を得て指導されることにより、優れた人間になるというように思われています。その優れたというものも何をもって優れているかと言えば、社會に善い影響を与える人だということは自明の理です。

世界でも学力ということが注目され、日本の教師も海外視察をし様々な学校の仕組みに注目しそれを国内へと取り入れるよう苦心しています。そういう私もオランダやドイツに訪問し、その国の学校の仕組みを観察したりもしました。

しかしそれは具体的な教育技術であって、そもそも教育とは何かという答えではありません。

私の思う教育者というのは、社會者というものです。

畢竟、社會がないのであれば教育は要りませんし、教育しなければ社會は成り立ちません。人が人と一緒に集団で社會を育てるために教育が必要になるのですから真の教育とは「社育」のことです。

つまり私は社會を育てることが、教育の真価であると定義しているのです。

以前、イエナプランのコンサルティング会社の経営者と会食する中で私が日本の社会が貧しいと嘆いていたら「教育に携わるものが社會の文句を言うべきではない、そうしてしまったのは教育がしたのだから」という話に感銘を受けたことがありました。

あの頃から、私にはオランダに行こうがドイツに行こうがどの国に行こうが、もしくは国内でも教育というものは常に一人一人が内省により実践し、自らの人格を高めることにあるということを自覚自明しました。

世界に影響を与える自分という社會を如何に自らが育てるか、つまりは社會人としての自分を如何に高めて学び徳を積んでいくのか、そういうことを自立し実践することが真の社會者=教育者であると私は思っています。

そしてこの人は真の教育者だというのは学校にだけいるわけではありません。

ある社會では会社であったり、宗教であったり、病院であったり、あらゆる1人以外の組織、コミュニティ(集団)の中にだって顕現しています。

善きリーダーが育ち、善き社會が顕われることこそが、真の教育に他なりません。

いくらテクニックばかりで教育を遠くに求めても、まずその自分自身の内省による社會が変わらないのならばそれはとても教育と呼べるものではないと私は思っています。

かつての神話にあるような世の中を、大国主が社育した世界、また聖徳太子が目指した社育、思いやりや正直に溢れた世に拡げていくことこそが日本人の伝統教育であると私は直観しています。

真の社會人になれるよう、矢印は自分に向けて自らの社育を実践し拡げていきたいと思います。

 

心の余裕

先日、余裕とは何かについて話すことがありました。

余裕というのは、心のゆとりのことで心が落ち着いてゆったりとしているという意味で用いられます。その心がゆったりとするというのは、物理的に何もしないことを言うのではないように私は思います。

そうではなく、心の余裕とは「初心を忘れていない」ということを言うのでしょう。

人は猛烈に忙しくなったり、体調を崩したりすると、感情や気分に呑まれていきます。すると、そもそも何のためにやっているのかとか、本質が何かなどは考えず、その時々の気分次第で物事に対峙してしまうものです。

そういう時は、心のゆとりがなくなり視野が狭まり自分の観えている世界も困窮していくものです。困窮してしまえば、感謝を忘れて当たり前であることに気づくことができなくなってしまいます。

本来、心というものの正体は広くゆったりしているというイメージがあります。これはなぜかといえば、どんな状況下であったにせよ、自分が活かされていることを実感したり、周囲や自他に感謝したいという気持ちを持っているからです。

心はありのままの自然や、生きていかされるあるがままで実相を捉えているように思います。心に邪念がなければ物事は正しく映りますが、ひとたび心を忘れれば邪気や邪念から落ち着けなくなるのです。

不安というものもまたゆとりをなくす理由ですが、心が「何のために」から離れるから不安が増大していくように思います。

つまりは、心の余裕とは「初心」です。

今の時代はどうも初心を忘れがちな時代のように思います。事件が多すぎるのか、マスコミや情報に踊らされてしまうのか、スピードがあがってしまったのか、自然の生活から遠ざかりすぎたのか、色々と理由はありますがどちらにしてもせっかくの人生が「何のため」を忘れることは悲しいことかもしれません。

幸福というのは、自分の御役目に感謝できることのようにも思います。

自分が何のために精一杯生きるのかの天命を知ることで、道楽を噛み締めることが歓びであるようにも思います。どんな状況下にあっても、心の余裕を失わないように「初心を忘れない、何のためにを忘れない」実践を積み上げていきたいと思います。

自然の一部

よく刷り込みの一つに、善悪や陰陽というものがあります。

人間は、自分を中心に右とか左とかを分けて考えてしまうものです。本来は混ざり合った渾然一体になったものを仕分けては、これは太陽だとか月だとか、小さなくなれば男とか女とかに分けて理解していきます。

本来、自然の一部であると認識すればそれはそのまま自然であるという認識ができますが分けたところから考えているから違うものとしてどうしても同じと思うことができなくなるのです。

宇宙というものも大きいものですが、宇宙を認識するのに太陽系とか銀河とか色々と目に見えるところを分けてはさも宇宙はそういうものであると認識してはじめて宇宙を語れると勘違いしてしまうのです。

そういうものをなくして、全てが一体善であるという風に考えることができればまた観方も考え方も変わるように思います。

先日、子どもが疲れて眠るのでどうしようかという話がありました。これは疲れていることを悪いと思っているから悩んでいるのであり、疲れることは善いことだと思えていないから問題が起きていたのです。本来は、子どもが疲れるのは決して悪いことだけではありません、一生懸命に遊びこんで楽しいからこそ、その後バタンと眠ってしまうのです。その疲れは、充実した疲れというものもあるのです。

大人が疲れが悪いと決めつける前に、疲れもまた善しと思えるかどうかはそもそもの自然の一部としてそのものを感じていれば理解できるように思います。自分の中にあるこうすべきだという決めつけが邪魔をすることでいろいろなことが歪んでいくのです。

他にも、ストレスは悪いものだと決めつけてストレスを毛嫌いしますがストレスがあるということは元気になっているということでもあるのです。多少厳しい中にいることで野生的な本能も働きだしますし、様々なものが自然の一部として感じることができます。野山に行き、自然に触れれば虫たちに攻撃されたり、寒暖冷気を浴びたりもしますが、その分、自分の内面にあるものが活性化していくのですからストレスもまた充実している方がいいのです。

病気でも然りで、病気とは自然治癒ですから病気になることを悪いと決めつけて自分を責めたりする人がいますが病気は治そうと身体が自然の一部として頑張っているのだからそれも悪いことではないのです。免疫のちからで、鼻水が出たり熱がでたりと気分はよくなくても身体にとっては治癒の最中ですから自然の一部なのだから幸福なことなのです。

天候と同じように、雨が降れば嫌がり晴れれば喜ぶというのは自分が中心になって自分の都合でそれを良し悪しにするだけであり、天候は常に善であるというのが自然であるように思います。雨が降れば、それまでの乾きを潤し、晴れればいのちに光を与えて満たされます。そのどちらにとっても善いことだと思えることが丸ごと一体善というものの考え方です。

これは良いとか悪いとかそういうものを思う前に、自分に矢印を向けて「全部善いこととして」取り組んでいるか、感謝の心で自他を思いやり「全部善いことにしよう」と遣り切っているか、そういうものの中に自然を実感する妙法があるように私は思います。

マイナス思考というものも、不安からくるものですが楽観的に善いことだと思えるのは感謝の心をいつも忘れないからかもしれません。すでに自然の一部であることは、天地は元の父母であるのだから安心の境地で善いことだと信じることが何よりも自然と一体であることなのかもしれません。

徳に報いるということが何か、徳も善なのだから自然でありたいと思います。

山野辺の道草

人は新しいことを学ぶときには、新しい山を登るものです。歩み続けるほどに新しい山は顕われ、その山をまた一つずつ登り学んでいくように思います。

山を登る時、人は登ってきた大変さを思うから降りたくないと思うものです。せっかく登ってきたのだから他の山に登ろうとは思わないのかもしれません。しかし、山は新しいステージに合わせて顕われますから今までの山の上にまた登ろうとするのではなく、心機一転新しい山だと思って最初から登る気概が必用ではないかと思うのです。

仕事でも、営業で学ぶ山、上司として学ぶ山、経営者として学ぶ山があるように思います。その山は一つの山の上にあるものではなく、それぞれ別の山を登っているのです。言い換えれば新しい風を感じながら、その山一つ一つの意味を確かめながら登るのに似ています。

みんな山と言えば階段のように、その上にまた山があっていつかはエベレストのようにてっぺんがあると思うのが山の概念です。しかし私の思う山はそうではなく、山の辺の道を歩んでいく中での道草の一つとして登る山々です。

登ることが目的ではなく、山々を歩いていく中にこそ道があるように感じています。

ヤマトタケルの辞世の歌に下記が残っています。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるはし」

(大和は日本の中でもっとも素晴らしい場所。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた倭は、本当に美しい。)

「命の またけむ人は たたみこも 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子」

(いのちの無事な者は、幾重にも連なる平群山の大きな樫の木の葉を かんざしとして挿すがよい こどもたちよ)

私の思う山々というのは、このヤマトタケルの定義している山と同じです。

その天に恵まれ見守られる山々の中で私たちは活かされ道を歩むことできています。その山々に感謝しつつ、新しい山を観てはそこを登らせていただきまた降りさせていただき次の山に学ぶのが、道場としてのお山なのかもしれません。

山はまるで神様のようなものだからこそ私たちはその中で生きているのですからその山の入り口で静かに佇む樫の樹の葉を御守りにして、活かされているままに澄んだ真心で学びとっていくことがいのちが自然一体に成長するということなのかもしれません。

倭人の子どもとして今も歩んでいくのだから青垣の美しい山々は続いていきます。
新たなステージを楽しみながら山野辺の道草を行脚していきたいと思います。

 

等身大の自分

全身全霊を捧げるという言葉があります。

これは文字通り、自分の持てるすべてを懸けてということでしょうが簡単なことではありません。人間には、我があり、その自我との調和がもっとも難しいと感じます。

いくら自分は捧げたと思っていても、そこには自分我が入ってきます。その我が入るからこそ、そこに邪念が発生して澄んだ清らかな気持ちを維持していくのが難しくなるのです。

全身全霊の境地というのは、とても泰然自若とした心境ではないかとも思います。

それは本当に全てを捧げる覚悟だったか、思いやりを優先し切っているかどうかと省みると、まだまだ足りないと思う処にいつも保身があったりするのです。

相手のことを自分のように思えるかというものも、全身全霊に近づく方法の一つのように思います。人は全ての力を出そうとはせず、これくらいやっているのだからや、周りが評価してくれるのだからと、自分のミッションや使命に生きることや遣り切っていくことよりも無難で在る方を選択してしまうものです。

一つ一つのそういう自分のわきの甘さに向き合って、今、何を優先したか、その優先する真心は何かと正対していく必要を感じています。感謝や謙虚というものの中に入るのもまた、そういう全身全霊を捧げることで実現するように思います。

自然界に野生する動植物たちは、我がないからあるがままの自然に同然しています。基本に据えているものの中に、慈愛や尊厳を感じているのかもしれません。

自分の都合を入れていないか、もっと周囲のために活動できているか、真心のままに日々を遣り切らせていただいているか、内省を深めて等身大の自分を錬成していきたいと思います。

等身大の自分であるかを常にチェックし、素直な心で自然を学び直していきたいと思います。

武士道精神

子どもの頃、父の影響で少林寺拳法を習っていたことがあります。約、4年間ほど通い色々なことを教わりましたが古武道を習い始めることでその時の記憶が甦ります。あの当時は、分からないことも子ども心には色々な教えが残っているものです。

少林寺拳法というものは、ただ相手に勝てばいいとか喧嘩をして負けなければいいというものではないことは習い始めてすぐに気づくものです。実際には、様々な行動規範を習います。私が一番驚いたのが、自分からは戦わないということを教わったときです。

では何のためにと思ったのですが、それは「力愛不二」という考え方があるからです。これは、慈悲心や正義感に溢れていても、力がなければ、誰かの役に立ったり、助けたりすることはできないということを教わります。また、そこにどれだけ力があっても、誇りや信念がなければ、正しい力の使い方もできません。

本物の強さというものは、相手を思いやることにあると教わるのです。相手を思いやるからこそ、守りに徹し、守ることから戦わないことを学ぶのです。

私は武道の本質というのは、それも思いやりや優しさから産まれるのではないかと実感します。無駄な戦いは避けたい、それは相手を思いやるからです。そして大切なものを守りたいと思うからこそ強くなる必要があるのです。

私の尊敬する師も、大切なものを守る時にはまるで不動明王のような威厳がでています。いつも圧倒されますが、あの強さは優しさや思いやりからだったということが理解できてきています。

正義というものも相手を思いやらない正義など、たいした正義ではないように思います。本物の正義とは、相手を思いやるからこそ御互いを活かし合い天に対しての正義=至誠を貫くことができるようにも思います。

流鏑馬の宗家からも先日、「本物の強さは戦わないことだ」と教えていただきました。

やはり古武道の源流は、自然一体の境地、つまりは「真心」にあるのでしょう。真心を学ぶには、優しさと強さを兼ね備えた真の武士道精神を持ち合わせる必要があるように思います。それを大和魂といい、ヤマトタケルから今の私たちまで連綿と継承した民族の血脈というものでしょう。

なぜ今、此処で私が古武道なのか、少しずつ意味が自明してくる中で、子どもたちを守れる真の強さと優しさを身に着けたいと実感しています。里が応援し、願いを届けてくださり未熟な私を鍛えてくださっていることを有難く感じています。

道に終わりはなく、道は無窮ですから今、来ているものに感謝しつつ歩んでいきたいと思います。

最適な距離感

自然農の実践をしながら3年目になりますが、毎年実験していく中で失敗も多いのですが収穫もまた多くあります。

昨年は、小麦をあらゆる方法で蒔いてみてその成果を試してみましたがその一つ一つが意味があり、過ぎてみて観察してみるとどのように蒔けば善かったのかが観えてきます。

これは仕事でも何でもそうですが、何でも好奇心で熟慮してみて挑戦し、はじめたら諦めずに遣り遂げてみて、その後、省察する中で自然に意味が着いてくるのを静かに待つのと同じです。

心を動かし、身体を動かし、精神を継続することでそこに意味があることに気づきます。その意味をどれだけ深く厚く自分のものにし、質の高いものにしていけるかというのが日々の実践と姿勢によるものだと感じます。

何かをトライした日は、トライしただけの充実があり、何もしなかった日は何もしなかった日としての虚しさがあるということです。日々のルーティンに流されているだけでも一日はあっという間に終わりますから、いくら怠惰な気持ちがあったにせよそこに打ち克って苦しくても楽しい方を選んでいけばその日の終わりは幸福感を実感できるように思います。

頭で考えていることを如何に打ち負かすかは、天命に任せつつ自分を信じる力に比例するものです。自信とは、結果が出たから持つものではなく自分にとって苦しい方を選択して善いことになると信じた質量によって得られるのではないかは私は感じています。

さて自然農の話に戻せば、今回は麦の空間について学び直すことができました。

これは麦に限らず、全ての植物には空間というものが必用です。

地上で生きていくには、その生き物がのびのびと安心してお互いを尊重し合う距離感が要ります。これは麦がある一定の距離と空間を保障しあうことで他の雑草を抑制できるという意味です。これは、稲にも言えることでその風土や環境にあわせてどのくらいの幅で育つのが他の雑草と共生できるかということでしょう。

麦一つでも空間が開き過ぎても狭すぎてもよくなく、ちょうど善いバランスの所を手探りで掴まなければなりません。これらの農の実践のむずかしさと面白さは、これらの自然の技術の習得にあるように思います。

自然をよく観察し、どのようにすれば最適な空間と距離感になるのか、また他の虫たちや気候などとの調整の中に、自分の思い込みを外す必要が出てきます。

そしてこの空間の理解というのは、そのものを育ててみてはじめて観えてくるものです。ちょうど虫にも他の野草にも野菜にも人間にも最適な距離感をどう観出していくかは育成してみて気づく智慧なのでしょう。

見守る保育を学ぶ中で、他分野から深めていますが御蔭様で新たな感覚も芽生えてきています。育てているつもりが育てていただいているのはいつも自分の方です。

田畑に感謝しつつ、丁寧に学びとっていきたいと思います。