型を遺す

佚斎樗山の天狗芸術論は、読み進めていると実践をベースに記されているのがよく分かります。もともと佚斎樗山が青年期に師事した熊沢蕃山は、陽明学から神道、さらには芸術にも精通しており、常に実践を優先し私心に囚われることのない真心を目指したのがその生き方から感じられます。

生き方を学んだ人が、その生き方を文字を遺すということは、後世のためにその「型を遺す」ということなのかもしれません。生きものではないものを使って後を託すのは、その心(生き方)は自ら修練し読み取るようにと先人を歩んだ実践者の強い祈りが入っているのかもしれません。

古の著作や、古の言霊に出会うことは実践を励まされているようで有難く感じています。

その天狗芸術論に「当世の修行者気質を嘆く」があります。

「古へは情篤く志し親切にして、事(わざ)を務ること健やかにして、屈することなく怠ることなし。師の伝ふる所を信じて昼夜心に工夫し、事にこころみ、うたがわしきことをば友に訊ね、修行熟して吾と其理を悟る。ゆへに内に徹すること深し。師は始め事を伝へて其の含むところを語らず。自ら開くるを待つのみ。是を引而不発(ひきてはつせず)といふ。」

(昔、武芸の道に志したものは、情熱ゆたかで志固く、技術の修練によく務め、挫けず、怠らず励んだものである。師匠が教えたことを信じて日夜心に研究を重ね、実技を試み、疑問があれば友に尋ねて、修業を積むことによって自らその道理を身に付けた。したがってその理解はとことんまで徹底したものである。師匠は、最初は技法は伝えても、それに含まれている道理を語ろうとはせず、自ら理解するのを待った。これを「近づけはするが明らかにはしない」という。これは惜しんで語らないのではない。)

「吝(やぶさか)にて語らずにはあらず。此間に心を用いて修行熟せんことを欲するのみ(中略)。是古人の教法なり。故に学術芸術とも慥(たしか)にして篤し。」

(この段階で心を働かせ、修行の実を挙げることを願うからこそのことである。これが古人の教育方法であった。これによって学問も技術も、ともにしっかりしていて内容豊であったのだ。)

「今人情薄く志切ならず。少壮より労を厭い簡を好み、小利を見て速やかならんことを欲するの所へ、古法の如く教ば、修行するものあるべからず。今は師の方より途(みち)を啓き(ひらき)て、初学の者にも其の極則を説き聞かせ、其の帰着する所をしめし、猶(なお)手を執りて是をひらくのみ。」

(今日では、武芸を学ぶ者も情熱が薄く、真剣な志を抱いていない。若いときから骨の折れることをいやがり、手軽なことを喜び、小手先のことで手早く上達するのを望んでいる。このような者に対して昔のようなやり方で教えたのでは、修行をしようという者がいなくなってしまう。そこで今日は、師匠の方から手ほどきをして、初心者にも極意をを説明し、その実際を見せ、さらには手をとってこれを教えこむほかはない。)

「かくのごとくしてすら猶退屈して止まる者多し。次第に理は高上に成て古人を足らずとし、修行は薄く居ながら、天へも上る工夫をするのみ。これもまた時の勢いなり。」

(このようにしてさえ、厭気がさして止めてしまう者が多いのである。こして理屈だけではだんだん達者になるばかりで古人の説では満足できなくなり、ろくな修行もしていないくせに、天にも登るほどのわざを得ようとするのだ。これもまた時の勢いとうほかはない。)(武道秘伝書 吉田豊編 徳間書店)

学び方一つとっても、今の学校の教え方と古の学問への姿勢は異なるものです。本質を学ぶということや、実践をするということが本来の学び方であったはずですが今のような情報や物が溢れかえった時代にはこの時代と同じような問題が発生するのかもしれません。

如何に貪欲に学ぶのかは、その人の真摯な生き方との向き合いなのでしょう。何のために学ぶのか、その初心を忘れないでいることが修行なのでしょう。先人の型をを参考にして取り組んでいきたいと思います。

神馬道

昨日紹介した天狗芸術論の佚斎樗山は、青年期に熊沢蕃山の指導を受け影響をされているというが分かりました。

またここで熊沢蕃山と出会うとは思っておらず、縁尋奇妙であることを実感します。

そもそも熊沢蕃山は、中江藤樹と深い親交がありそこから儒教の本質を学んでいます。その思想を本来の神道と結び、本来の智慧とは何かと明らかにした人物であろうと私は思います。時代の流れの中で、色々と評価がありますが私から観れば同じようにかんながらの道を歩んだ人のように思います。

その佚斎樗山は本名丹羽十郎右衛門忠明、万治2年(1659)生、寛保元年(1741)に亡くなっています。武蔵関宿の久世家三代に歴仕した後、享保16年(1731)致仕、以後十年ほど蒙童教導のための著述を遺しています。

そして教えの本質とは、畢竟、「自己一心の明悟」というところにあるとし、つまりは私の言葉でいえば「自他一体の境地」にこそ得られるという思想です。如何に、自分というものを突き詰めて自分本来でいるのか、自然体といってもいいかもしれませんがその境地を目指すために学問を楽しむということでしょう。

佚斎樗山の考え方には、熊沢蕃山が真に伝えようとした本質がはっきりと観てとれます。もしかしたら非業の死を遂げた師に対しての真心と大義がこの佚斎樗山の講義本として夜に顕現したのかもしれません。師弟の義の絆の深さを感じて、義に生きるものたちの志にまた心が揺さぶられました。

私の名をつけていただいたのも、豊前坊という天狗の山です。これからはじまる神事、流鏑馬ともに、この佚斎樗山の考え方を同一に智慧を深めてみたいと思っています。

智慧の第一に下記があります。

「人は動物なり。善に向かわない時は必ず不善に動く。この念がここに生れなければ、別の念がかしこに生ず。」

万物一体善のことをいうのでしょうが、如何に清明心でいるか、透徹するほどの純粋な真心でいるか、そういうものを善とし、それらを別の思念が邪魔をするということでしょう。

単なる馬術ではなく、神馬に手伝っていただきながらかんながらの道としての神馬道をこれから学んでいこうと思います。

人馬一体

昨日、流鏑馬の稽古の中で師より「人馬一体」ということについて指導がありました。

乗馬においてもまだまだ自身の身体がまったくついてきませんが、長い時間、引き合い気持ちやタイミングを合わせていく中で少しだけ学びの入り口を体験させていただけたようにも思います。

そもそもこの人馬一体とは、辞書には「乗馬において乗り手と馬が一つになったかのように、なだらかで巧みな連係が行われること」とあります。師からは、長い時間の馬との関わりの智慧をひとつひとつの言葉の中で教えていただけているのを実感します。

自分なりに、感謝のままに武の心を学んでいきたいと思います。

滑稽さの中に教訓と風刺をまじえて江戸時代中期に流行した「談義本」の祖とされる佚斎樗山に宮本武蔵『五輪書』とならぶ「剣術の秘伝書」に「天狗芸術論、猫の妙術」があります。

ここに人馬一体について書かれています。

問ふ 「何をか動いて動くことなしといふ。」 曰く「汝、馬を乗る者を見ずや。」よく乗る者は、馬東西に馳すれども、乗る者の心泰(ゆたか)にして忙しきことなく、形静かにして動くことなし。ただ、かれが邪気を抑へたるのみにて、馬の性に逆ふことなし。ゆえに人、鞍の上に跨(また)がって馬に主たりといへども、馬これに従って困(くる)しむことなく、自得して往く。馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、精神一体にして相離れず。これを鞍上に人なく鞍下に馬なしともいふべし。これ動いて動くことなきもの、形に表はれて見やすきものなり。未熟なる者は、馬の性に逆って我もまた安からず、つねに馬と我と離れて、いさかふゆえに、馬の走るにしたがって五体うごき、心忙しく、馬もまた疲れ苦しむ。ある馬書に、馬の詠みたる歌なりとて、

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり

これ馬に代りてその情を知らせたるものなり。ただ馬のみにあらず。人を使ふにもこの心あるべし。一切の事物の情に逆ふて、小知を先にする時は、我も忙しく、人も苦しむものなり。

これを石井邦夫氏が現代語訳しています。

「次のような質問があった。”動いて動くことなし”とは、一体どのようなことを言っているのであろうか。次のように答えて言った。あなた方は乗馬者をよく見るだろう。上手な乗馬者は、馬を東西に走らせても心は安泰でせわしいことはなく、その姿も静かでゆれ動くことがない。外から見れば、馬と人が一体になっているようである。

しかしそれは、ただ彼が自分の邪気を抑えているだけのことで、馬の性質に逆らうことがないのである。それだから、人が鞍の上にまたがって馬の主になっていたとしても、馬はそれに従って苦しむこともなく、納得して走っていくのである。

馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、気持ちが一体になってお互いに離れることがない状態、これを”鞍上に人なく鞍下に馬なし”とでもいうのであろう。これなどは”動いて動くことなし”ということが具体的な形に表れて、わかりやすい例である。

未熟な者は馬の性質に逆らってしまい、自分もまた安泰ではなく、つねに馬と自分の気持ちが離れて、争ってしまうために、馬が走るにしたがって身体が揺れ動き、心がせわしくなり、馬もまた疲れて苦しむのである。

ある馬術書に、馬が詠んだ歌として、次の和歌がある。

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり
(集中して走り込もうとすると引き止められ、手綱が口にかかって前に行かれないんだ)

これは馬に代わって馬の気持ちを伝えたものである。

ただ馬だけではない。人を使う場合にも、このような気持ちはあるであろう。一切の物事の状況に逆らって小賢しい知恵を先に働かせてしまうような場合は、自分でもせわしなく、他人も困らせてしまうものである。」(講談社)

古武道から学ぶ智慧は、今の人生を生きる智慧そのものです。

何事も分けずに道から教えが入っていることに感謝し、心のままに学びを深めていきたいと思います。

体験即感謝

毎日、色々なことが起きる中で自分の思い通りいかないことは沢山起きます。最初は、感情的になりますが内省をし意味づけしていく中で新しい発見に出会います。発見というのは、自分の思ってもいない出来事に出会うことを言うように思います。

自分の思ってもいない出来事というのは、その出来事に良し悪しがあるわけではなくそのままにそれが起きたということです。そういう時は、その出来事に真っ直ぐに向き合えるかどうかでその出来事を正しく学ぶことができるようにも思うのです。

そして真っ直ぐとは何かといえば、直視することですがこれは心と体と精神が正面から受け止めるということであろうと思うのです。世の中には受け止められないことがたくさんあります、その理由は自分が捻じ曲げてしまっているからです。

本来の自分はこうであるはずということや、自分の思い通りではないというところに執着を持つと分かってはいてもその執着が手放せずにいつまでも苦悶は続いてしまうのです。この自分の思い通りというのは、世界は自分のものであるということ、自分の一部が世界であるという感覚のことであろうと思います。自分が全体の一部であり、世界の中に自分が存在していて循環の担い手であるということがこれを手放す鍵かもしれません。

自分の身におきる全ては何かの意味が隠れていてそれが世界に多大な影響を与えているという責任を持っているかという自覚なのです。出来事を善きことにしていこうとするとき、一見悪いと思えることを善いことだと信じようとするとき、世界の本来の姿が顕現するのです。

この世は、自分が生きているだけ、活かされているだけで幸福な場所なのです。その幸福な世界に棲んでいるだけで善きことなのですが、私や我が入ることでそう見えなくなっているのです。

そこから体験を省みれば体験そのものが感謝であると実感できるようにも思います。

体験即感謝というのは、この世界があるがままの世界のままにいる自覚をするためのコツかもしれません。知識という別の世界を産みだし、そこで人間だけの世界を創造してしまいましたがそのことから真実から離れてしまったように思います。

本来の世界そのままにいるということで、正直、素直であることを体現するのですから全体宇宙の感覚を忘れないように感謝のままでいる実践が確かな意味や記憶というものを純真にしていくように思います。

ズレテいるのは誰か、ズレテいるのは何か、そういうことを出来事との正対、自分自身との向き合いにより学び直すことが新しい発見を創造するのでしょう。有難い機会に一つ一つ深く感謝して歩みを清々しくしていきたいと思います。

 

大和の言霊

先日、世田谷の松陰神社に参拝する機会があり純粋な志に感応しました。

以前、ヤマトタケルが大和の風土であることをブログで書いたかもしれませんが私の思う純真な風土人の一人がこの吉田松陰先生です。

自然をお手本にしていますが、天人合一に自然一体となった純粋媒体の人物の生き方に触れるといつも心が揺さぶられます。もっとも有難いことはその人の遺産が歴史として書物として口伝として心に残っていることなのかもしれません。

その遺訓や遺産を志で承ることが志士の心得なのかもしれません。社會に出でては仕事をしますが、志士でなければ何ものかということでしょう。ただ自分が貪るために生きるのではなく、豊かに何か大切なもののために生きたいと願うならそれはもうすでに志士の一人です。

初心や理念、志を重んじて生きる事こそが生き方となって受け継がれていくように思います。

吉田松陰に下記のような大和の言霊が残っています。

「夫れ重きを以って任と為す者、才を以て恃(たのみ)と為すに足らず。知を以て恃と為すに足らず。必ずや志を以て気を率ゐ、黽勉(びんべん)事に従ひて而る後可なり。」

(重大な使命を掲げ、それを自らに課すものは、決して才能を頼みにしても、知識を頼みにしてもいけない。必ずその初心や志を以て仕事に励まなければならない。その時々の自分の思い付きや単なる小手先のテクニックなどで仕事を片付けようとしたり、いたずらに知識ばかりを増やしてはいけないのである。)

「士は過なきを貴しとせず、過を改むるを貴しと為す。」

(失敗して恥をかくのが嫌で挑戦をしないのは取るにたらない小人のやることである。志士はそういう無難であることを尊いとは決して思わない。使命感に生きる人は失敗してもすぐにその過ちを認めてすぐに正すことを優先する、チャレンジしては改善することを尊いとしているのです。)

最後に、心に深く響く言霊です。

「自らその暗劣なるを忘れて日夜勉励し、古賢を以て師と為す。」

(自分が誰かよりも劣っているとか能力がないとかそういうことを思い煩うのを忘れるほどに日夜精進し真摯に実践することを怠らず、古の聖賢の背中や足跡を先生として生きていきなさい。)

意訳ですが、言霊の受け取り方はその人の心で受け取るものです。世間から学びはしても、世間の価値観には迎合されない確固として志がいつも自分を助けてくれます。群れる必要もなく、無理に合わせる必要もない、只ひたすらに自らの求めた道を歩んでいきたいと思います。

童心

アナと雪の女王という映画が大ヒットしています。

拝見すると内容もさることながら、ディズニーが温故知新しているところが随所にみられとても参考になりました。時代の変化とともに、その本質は失わずに最先端の技術や世の中のニーズを的確に捉えていくところ、またその作品の背景にある人々の思いなどが映像に投影されていました。

それは私なりの解釈ですが、「童心を忘れない、感動を忘れない、家族愛を忘れない、時代をリードするのを忘れない」、これらに尽きているのではないかと思います。今年はディズニーとのご縁があり、この4つを随所に実感することができました。

刷新していくことや革新していくことは、仕事を楽しんでいるということです。夢を追う仕事という物は、常に夢を追い続けること、初心を忘れないことをいうように思います。人はすぐに形式的な仕事観や自分自身の持つ社会というものの固定概念で仕事を無機質なものに変えてしまうものです。

実際は、やっていることは夢であるのだから夢のように働くというのは生き方そのものを決心した初心のままで常に内省を続けるということかもしれません。実践する本人が子どものような好奇心を持っていなければ、好奇心を引き寄せるような出来事は起きないのかもしれません。

今回の作品は、人間が誰にでも持つ心の傷についての内容でした。

人間というのは、心の傷を負うことでありのままの自分を受け容れることができなくなります。その傷が深ければ深いほどに、自己嫌悪になり自己否定をしてしまうことです。そうなると、自分のような人間は幸せになってはいけないのだと自己抑制し自分を自分で痛めつけたり、自分を自分で追い込んだりと孤独になっていくものです。

子どものむき出しになった純粋無垢な心に傷が入ると、もう誰も傷つけたくないと思ってしまうのでしょう。子どもは考えていませんから何が傷をつけてしまうのか分かっていません、悪気がなかったはずですが大切なものを傷つけてしまった悲しみから自分で自分を責めてしまうのです。

傷が癒えようとすれば癒えるほどに忘れないようにすぐに傷つけるのだから傷跡がしっかりと残ってしまうのでしょう。

その傷は、他の誰かからの愛や自分自身への許しによって得られるのでしょうが今を善くしていこうと努力していくことで少しずつですがその古傷が誇りになっていくように思います。傷を治すというのは、決して傷を消してしまうことではありません。

傷があるからこそ、その傷の御蔭で今はとても強くなったとか、愛せるようになったとか、大事にできるようになったとか、その傷を感謝に換えるほどに善い今にしていこうとすることのように思います。

傷つけた方も、傷つけられた方も、その傷の御蔭で善くなったと思えるようになることがお互いの縁を有難く受け止めることなのかもしれません。なかなかこれはご縁ですが丸ごと受け容れるのは本当に難しいことだと思いますが、時間が経つことで次第に未熟だった自分のことも丸ごと理解できるようになるのかもしれません。

人間の子どものような優しい心は、純粋で純真なものです。

その純粋な純真な心を育て見守るのは、周囲の大人たちの思いやりがあってこそのように思います。子どもが迷い苦しむときに、どのような手を差し伸べることができるか、そこにこそ社會の価値があるようにも思います。

どんな出会いがあるのかワクワクしますが、一つ一つを大切にしていきたいと思います。

地球での実践

先週から地球に関するご縁を様々なところでいただいています。

そもそも自分というものから世界を見た時に感じるものと、地球というものから世界を見た時に感じるものは異なるものです。

例えば、この国は誰のためのものかと聞けば国民とか国家とか、首相だとか色々と言われそうですが本来はこの国は地球のためのものです。それ以外の国々もみんな地球のためにあるもののように思います。

言い換えれば、草花から木々、虫たちから動物にいたるまで地球に生息するものは地球のためにあるものです。地球のためというのは、地球であるということであり、私たちはその地球の一部として存在しているということを忘れてはいけないということでしょう。

いくら人間の社会の中で、大きな戦争などにより滅びそうなことが起きたにせよそれはあくまで人間の中で起きることです。しかしもしも巨大隕石など地球にとって致命的な出来事が起きれば地球の中にいる生きもの全てに影響がでてくるものです。

私たちは存在が大きすぎるものを意識することは少なくなっているものです。太陽や月、地球はあって当たり前、空気や水や土もそのままであるのは気にすることもないように思います。しかし、それが一つでもなくなれば、人間社会の問題どころではなくなりすぐに生命の危機にさらされてしまうのです。

よく考えてみれば、平和ボケというものは地球の一部であったことを忘れてしまうことなのかもしれません。世の中がいくら不安定といっても、本来の自然災害の危険に比べればそれは想像できるものだからです。

私たちは地球をコントロールすることなどできないはずですが、できると錯覚するのは人間だけの世界で物事を考えていることの証明なのです。そういう人間社会の枠組みの中で、居心地が良い状態が続くことで本来の自然ということもまた錯覚していくのでしょう。

一度、人間社会から離れて自然の一部であることを実感すれば苦しみもまた少し遠のくのかもしれません。聖人が自然と一体となる修行を行うのは、自然から学び、その自然を人心の中に透過していく必要がからでしょう。

自然を透過するといえば、自然の実践に長けていたかの空海もまた、そのような地球人としての生き方と具体的な仕組みを通して、この人の世が持つ様々な苦しみを見抜き地球の一部としての真理を表現し自然と人間の融和した生き方に貢献された方だったのかもしれません。

私たちは地球のものですから、地球のためにあるような生き方を考えていきたいものです。
地球人のいのちとしての実践とは何か、日々に気づきを改善につなげていきたいと思います。

林檎聖人~地球人~

昨日、奇跡のりんごの映画で有名な木村秋則さんの講演会にクルーと参加してきました。
自然栽培という、新しい栽培方法を提唱されその農法を拡げるために活動されていました。

今の慣行農法では、地球が疲れてしまうということで肥料や農薬を使わないで自分の目と手を代わりにして育てていこうという考え方で実践されているものです。

講演では、最初に大小のりんごをポケットから取り出して 「最初はこんなに小さなりんごが30年経ち今ではこんなに大きくなりました」と語りかけ、これが現実ですと見せてくれました。その上で「本来、農の世界はものの大小が判断基準ではないのです」と言います。続いて「りんごは、毎年今年はこれで一生懸命だった、来年はもっと頑張るよと言ってくれているんです」と話す姿にまるでりんごそのものが喋っているかのような自他一体の姿を拝見しました。

世界中ではまだまだ人間の食糧の確保のために常に新しい肥料や農薬が沢山使われ、大量生産されています。りんごも同じく、消費があるから生産するのですがとにかく大量にと生産されることで土はどんどん疲弊してきています。

そこには何の疑問も思わず、人間だけが生きているかのような錯覚に陥ることで畑の土がどんどん生きもののいない真っ白な無生物無機質な姿に変化してきています。本来の地球が喜ばないようなやり方で無理やりに働かせてしまうと豊かであった生態系もまた貧しくなって焦土のようになっていくのかもしれません。

そもそも農薬や肥料というものを足さないという考え方は、無理やりに育てないということです。そのものが育つのを見守るのですから、足す必要はなくよりそのものが育つような環境を手伝っていけばいいのです。言い換えれば私の言葉にすると、何もしないということでありそれは天に従うということです。無私と無我ともいってもいいかもしれません、そういう境地であるがままであることを尊ぶことで自明する環境こそが自然であるというように定義しています。

それは感謝を基盤にして、あるがままであるということですから人間が謙虚でいるということです。謙虚な心で育ち合うことや、素直な心で学び合う環境こそがもっとも自然に近づくことではないかと私は思います。

話を戻せば、最後に「今、耳に入ってくるニュースはミツバチがいなくなったとか蝶がいないとか、そういう話ばかり、今私たちは何をなすべきか、日本中の人達は未来のために真剣に考えてほしい。」とありました。そして続けて「運河や大河も最初は小さな川からはじまった、信じていけばそこに必ず立派な道ができる」と。

今、私たちも見守る保育という実践を拡げようと自分たちも実践を行いつつ、仕組みを創造し仲間を増やしていますが業界が異なっていても同じ志で生きる人たちが真摯に努力する姿を観ると勇気が湧いてきます。

決して一人ではないのだから、みんなで力を合わせて地球が喜ぶような生き方と働き方、太古の昔から日本人が大切にしてきた天照大御神を中心にした社會をもう一度、復興、復活させていきたいと心に誓いました。

常に時代はうねりをあげながら変化を已みません、自然環境も待ったなしで偉大に揺れ動いています。この先のことを思えば、この今が文明に課せられた最期のチャンスなのかもしれません。同じ地球の上に生きるものとして地下や根っこは同じ土から出でたいのちなのだから天の命じるままに、このいのちそのものを運んでいけるように自然から学び続けていきたいと思います。

 

真心が至誠

昔から人は真心を持って生きる事や、至誠であることは天を相手にしているという言い方をします。これは天というものの存在を実感し、その天に恥じないような生き方をしようと心掛けているということです。

これをお天道様という名で呼び、そのお天道様がいつも見守ってくださっているのだからそれに恥じないように生きて活きましょうという声掛けをして正直にその性を全うしていたのだと思います。

そもそもこの天とは何かといえば、天地自然のことです。大宇宙という言い方をしてもいいのかもしれませんが、私たちを活かしてくださっている偉大な存在のことをいうように思います。

例えば、私たちの身体は何もしなくても自分で成長し自分で回復していくものです。これは本能とも私たちは呼びますが実際は何かによってそうさせていただいているということです。つまりは私たちの身体も英語で言う何ものかサムシンググレートによって活かされているということです。

私たちが天を感じるというのは、そのサムシンググレートを感じているということでありその天の運行、天の恩恵を素直に正直に承れるようにしていることが謙虚でいるということであるように思います。

本来は天が活かしてくださっているのだから何もしなければその恩恵は享受できるのですが、しかし人間は我や私が入りますからそれをすぐに邪魔をしてしまうように思います。自分の我や私が入り込むことで丸ごと受け取ることができなくなり、運が悪くなっていくようにも思います。

天は人間を活かし、そして万物を丸ごと包み育むのだから必ず善くなるようにしてくださっているのです。だからこそ天を邪魔しないように生きていくこと、自分に与えてくださったものを選ばないこと、来たものは全て善いことになるように祈り取り組むこと、周りの全てを受け容れて一体となって丸ごと善いことになるのだと信じた実践を積んでいくことが徳を高め運がより善く開けていけるように私は思います。

西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、これは天が自分を愛してくださるように自分も人を愛する、それは天の真心のままに活かされますという覚悟ではないかと私は思います。

天人合一というのは、全てを一円の和の中で丸ごと善いことにしていく生き方のことです。言い換えれば、天に対しては謙虚、人に対しては素直でいるということであろうと思います。

人間は無我や無私になる時にだけ、すべての問題が自分の問題になるように思います。
自他一体とは、無我や無私のときにこそ実感でき同時というのもまた其処に存在します。

日々は学びの連続ですが、天に感謝し、全てを善いことにしていくよう内省したいと思います。
日々の有難い体験と学びという豊酬に心から感謝しています。

自由の責任~社會の中の一個人~

自由には責任が伴うという言葉があります。

このことについて深めてみます。

もともと責任とは何かという定義ですが、これは誰かによって取らされる、誰かによって責められるものではありません。他から外圧的に与えられた責めというのを任されるというものは本来の責任というものの自覚とは異なるものという意味です。

責任というものは、一つの社會の中での一個人としての自立という意味で用いるものです。言い換えれば、自分自身が自由の中でどれだけ責任を自覚しているか、つまりは自立する責任のことをいうように思います。

社會というのは、本来、何かによってつくられたものではなく自らが社会の一員になって社會を育てて社會をより善いものへと変化させていく責任があります。一人で生きているのなら自分の好き放題にしてもいいのかもしれませんが、社會は多くの人達の支えで成り立っているものです。

その成り立っている御蔭で自分が存在できる価値をどのように見出して、どのように還元していくのかは自分自身の自立心に懸かっているといっても過言ではありません。社會というのは、自分の存在価値を認めてくれているのだからその自由の中で如何に自分自身が責任を持つのかというのを自覚することではじめて責任を持ったと言えるのです。

責任というのは、自覚でありとても厳しいものです。自分自身の社會での責任を思うなら、自分自身が正直に周囲や社會の一員として社會に関わっていく必要があります。例えばそれは、自分がどんな社會にしていきたいか、自分がどのように社會に参画し社會を育てていくかということを優先して自らの生活を創造していくという具合にです。

子どもを大切にするといっても、単に子どもを溺愛することを大切にするとはいいません。子どもを大切にするには、自分自身が子どもを大切にする社會の責任を担うことが必要になります。それは、自分自身が社會がこうなればいいなと思うのならば自らが社會に働きかけて社會そのものを善くするためのモデルとして実践していくということです。

自由というものは、自分の好き放題、好き勝手の自由は責任感の欠如で発生するものです。本当の自由とは、そこに自立しているという責任があるかどうか、言い換えれば自分の生き方と働き方が社會をより善くしているかということに自らが責めを負い、そしてその役割の一端を任されているという自覚をいうのでしょう。

常日頃から、誰かの評価だけにあわせて自由を確保したり、世間一般の社会にのルールはこうだからと決め込んでそこに迎合して責任はとっていますというのでは自分自身の人生にも責任を持てなくなるかもしれません。

子どものたちのことを思えば、如何に社會の一員として責任を持てる大人が増えていくかが大切です。未来を社會を譲るということは、子どもたちが安心して暮らしていける社會をつくるために今の社會の責任を持てるかどうかということにかかっているのかもしれません。

そもそもの自立、そもそもの自律、その社會の中での一個人としての使命と責任の意味を私的な個人の感情ではき違えないように自らを戒め、気を付けたいと思います。本当の本質や真の正直で取り組めるように実践していきたいと思います。