今朝がた朝練中に池の周りを走っていたら沢山のゴミが落ちていました。花見客がそのままバーベキューなどをして片づけをせずに捨てていくのでしょうが、朝練の子どもたちと一緒に走った後にゴミ拾いをしてきました。
最初は大きな袋2つで足りると思っていたら、ゴミの量はとても多くあっという間に一杯になり袋を増やしてまた取りました。その他にも網、瓶、段ボールその他の粗大ごみまでそのままに捨ててありました。
捨てているゴミを見ていたら、いつも同じところで同じ缶コーヒーを飲んでは捨てているものがあったり、マクドナルドのハンバーガーやたばこの箱、一番多かったのがビール缶でした。
改めて他人の捨てるゴミを拾っていたら、今まで見えなかったものが観えてきます。
裕福そうに観え、豊かそうに感じる日本ですが捨てられたゴミからそれを実感することができません。物の価値が下がり、便利なもので溢れていく中でまた買えばいい、持ち続けるよりも捨てる方がいいという考え方が拡がっています。
有り余るから使い捨てるという考え方ですが、果たしてこれは豊かというのでしょうか。
最近では、飲み放題とか食べ放題、使い放題とかそういう無限にあるものが価値があるかのように宣伝されます。それにチラシには激安とかお買い得とか、色々と安ければいいという考え方もまた広告されます。そこに何か貧しさや虚しさといったものを感じるのです。
豊かさというのは、物量が増えることではありません。
豊かさというのは、心の豊かさでありそれは物量とは関係がないということなのでしょう。むしろ今のような時代、有り余る物量の中でお金で何でも買えるようになればより一層、貧困は拡大していくばかりです。
その心の貧困は、貧富の国の差ではなくゴミであるという考え方の中にあるように私には思えるのです。日本には、かんながらという伝承された生き方が残っています。そこには、八百万の神々がいるという全てのものにはいのちがあるという真心のことです。
どんなものにもいのちがあり、そのいのちを尊敬し慈しみ愛おしむように大切にしていくということですが、その中にこそ真の豊かさがあるのではないかと私には思えるのです。
そしてその豊かさの正体は、感謝のことです。この感謝を人々が忘れることで世界中のゴミは悪循環に増え続け、そして貧困もまたそれに引っ張られて拡大し続けます。
最後に、二宮尊徳の道歌に、「むかしより人の捨てざる無き物を拾い集めて民に与えん」があります。
本当に価値があるかないかは、その人の心しだいなのかもしれません。今朝は粗大ごみの中でまだまだ使えるものを拾うことができました、話し合った結果、それを持ち帰り長く使わせていただくことになりました。
学びは脚下の実践の中にあります。
色々とまた教えていただき有難うございました。