いのちのつながり

今朝も池の周囲のゴミ拾いを続けていると、新たなことに気づきます。

これだけ美しい自然や景色をなぜ汚すことに気にならないのだろうかと感じる時、心に映る世界はきっと環境や人々の状況によっても異なっているのだろうということを発見するのです。

人は自分の見たいように世界を観ているものです。それが美しいと思えば美しく感じ、それを汚いと思えば汚く見えるものです。人間の心の世界というのは、その人次第でどうにでも変えていくことができるのです。その人たちの心がどれだけ澄んでいるか、穏やかであるか、和やかであるか、潤い暖かいかを私たちは常に意識している必要があるのかもしれません。

今回もゴミを拾っていく中で落ちて捨てているものには、タバコの吸い殻、お酒、お弁当箱、博打後の紙、缶コーヒーやジュースのペットボトルがほとんどでした。昨日は粗大ごみや大きなものばかりが気になりましたが、今回は小さなもので隙間や端々に落ちているものに目がいきます。不思議ですが、毎回、拾えば拾うほどに自分の見えている世界もまた美化されていきます。まだまだ実践が足りませんが、整理整頓の力とはこういうところで磨かれるのかもしれません。

今回はそのゴミを捨てている人がどんな心境であったのか、またどんな気分であったのか、色々と想像しながら拾いました。ゴミの種類を見ても朝早くから捨てている感じではなく、夕方から夜、深夜にかけて捨てているのが分かります。しかも誰も見ていないだろうというところに捨てているのが分かります。誰も見ていなければ捨ててもいいと思うのは、その人が周囲や人々から見守られているよりも見張られているかどうかを基準にしているのではないかと思うのです。

しかしこうなってしまった理由は誰がとかどういう人がとかが理由なのではなく、根源は人間の心の問題、そしてそこから顕現する社會問題であると私は思います。

かつて歴史を鑑みても、人心の荒廃は社會の貧しさによって現れてくるものです。その最初の兆候は身近な神社や、道端のお地蔵様に対する感謝や、先祖や先人たちへの報恩などが消失していくところからはじまっていくように感じます。

共同で築き上げてきた絆を、歪んだ個人主義や利己主義が蔓延してくると社會の弱い立場の人たちにそれを押し付けられていきます。本来、社會とは結びつきで成り立っているものであり、皆がかかわり合い、助け合い、見守りあい活きるからこそ存在できているものです。

しかしそういう結びつきや絆が薄れてくるからゴミが散らばっていくように私には思えます。昨日はゴミそのものの概念、価値を亡くすことに問題があると実感しましたが今朝は人々の絆が失われていくことに問題があることを実感するのです。

ゴミとは物の価値と人の価値、これらの価値が循環していくものそのものへの否定です。

物も人も勿体ない存在、だからこそ、その御蔭様に感謝して大切に恩返しをしていくということも分からなくなっていくのでしょう。しかしこれらはすべて「いのちのつながり」の中で実感する境地です。

いのちのつながりを断裂することで、日々のゴミは拡大し続けるのでしょう。

経済も教育もそして信仰も、当たり前のところが歪んでくることで社會はすぐにその影響を受けていきます。地球という世界に棲んでいるのだから、ゴミを出すのは地球ではなく人の心です。

もう一度ゴミを出さないとかゴミを増やさないという前に、大前提の人間としての生き方の方を学び直していく必要性を感じました。物にも人にも溢れかえっているような時代だからこそ、真の心の豊かさ、自分が活かされているという有難い今を大切にしていくところから実践していきたいと思います。