人は教えられないものに気づくというのは体験をするということです。
体験をすることで、今まで気づかなかった新しい世界が顕われてくるからです。分かれていた世界が繋がるように、二つ以上のものが一つになるように体験をすることで一体になっていくように思います。
そもそも分けてきたのは、脳が整理をするために様々なものを分けているともいえます。
空気や水、太陽や光という自然のものまで分けていますし、他にも仕事とプライベートとか、平日と休日とか、社会の枠組みにあわせて分けているものを見て、分けているものに自分を嵌め込んでは脳の考えている社会の中で自分というものを配置しているものです。
しかし時折、その脳で考えている通りにはいかないことで苦しむように思います。
きっとこうではあるはずだ、必ずこうなるはずだと先に答えや結果から悩むのもまず脳が先に構築したものと大きくズレてしまうことで混乱しているのです。正しいと思い込めば、その正しいことに固執してしまいます。
巷の経営論や、数々の評論によるものは参考にはなりますが体験にはならないものです。
自分の体験としてどれだけのことを融和していくかが、学びを消化していくことかもしれません。喰わず嫌いになる前に、喰って味わってみてから深める方がそのものが何であったかを丸ごと認識できるようにも思います。
体験ということができるというのは尊いことです。脳はすぐに体験する前に知りたくなりますが、心は常に体験したがっているようにも思います。せっかく自然豊かな地球に生まれてきたのだから、人は地上の楽園で色々な体験がしたいと思っているのが本能のように思います。
体験が楽しくなるのは、その固定概念を壊したときかもしれません。
小さな微細な体験からコツコツと積み重ね、より偉大で奇跡のような体験を深く厚く味わっていきたいと思います。掛け替えのない日々を大切に遣わせていただきたいと思います。