自由の責任~社會の中の一個人~

自由には責任が伴うという言葉があります。

このことについて深めてみます。

もともと責任とは何かという定義ですが、これは誰かによって取らされる、誰かによって責められるものではありません。他から外圧的に与えられた責めというのを任されるというものは本来の責任というものの自覚とは異なるものという意味です。

責任というものは、一つの社會の中での一個人としての自立という意味で用いるものです。言い換えれば、自分自身が自由の中でどれだけ責任を自覚しているか、つまりは自立する責任のことをいうように思います。

社會というのは、本来、何かによってつくられたものではなく自らが社会の一員になって社會を育てて社會をより善いものへと変化させていく責任があります。一人で生きているのなら自分の好き放題にしてもいいのかもしれませんが、社會は多くの人達の支えで成り立っているものです。

その成り立っている御蔭で自分が存在できる価値をどのように見出して、どのように還元していくのかは自分自身の自立心に懸かっているといっても過言ではありません。社會というのは、自分の存在価値を認めてくれているのだからその自由の中で如何に自分自身が責任を持つのかというのを自覚することではじめて責任を持ったと言えるのです。

責任というのは、自覚でありとても厳しいものです。自分自身の社會での責任を思うなら、自分自身が正直に周囲や社會の一員として社會に関わっていく必要があります。例えばそれは、自分がどんな社會にしていきたいか、自分がどのように社會に参画し社會を育てていくかということを優先して自らの生活を創造していくという具合にです。

子どもを大切にするといっても、単に子どもを溺愛することを大切にするとはいいません。子どもを大切にするには、自分自身が子どもを大切にする社會の責任を担うことが必要になります。それは、自分自身が社會がこうなればいいなと思うのならば自らが社會に働きかけて社會そのものを善くするためのモデルとして実践していくということです。

自由というものは、自分の好き放題、好き勝手の自由は責任感の欠如で発生するものです。本当の自由とは、そこに自立しているという責任があるかどうか、言い換えれば自分の生き方と働き方が社會をより善くしているかということに自らが責めを負い、そしてその役割の一端を任されているという自覚をいうのでしょう。

常日頃から、誰かの評価だけにあわせて自由を確保したり、世間一般の社会にのルールはこうだからと決め込んでそこに迎合して責任はとっていますというのでは自分自身の人生にも責任を持てなくなるかもしれません。

子どものたちのことを思えば、如何に社會の一員として責任を持てる大人が増えていくかが大切です。未来を社會を譲るということは、子どもたちが安心して暮らしていける社會をつくるために今の社會の責任を持てるかどうかということにかかっているのかもしれません。

そもそもの自立、そもそもの自律、その社會の中での一個人としての使命と責任の意味を私的な個人の感情ではき違えないように自らを戒め、気を付けたいと思います。本当の本質や真の正直で取り組めるように実践していきたいと思います。