先週から地球に関するご縁を様々なところでいただいています。
そもそも自分というものから世界を見た時に感じるものと、地球というものから世界を見た時に感じるものは異なるものです。
例えば、この国は誰のためのものかと聞けば国民とか国家とか、首相だとか色々と言われそうですが本来はこの国は地球のためのものです。それ以外の国々もみんな地球のためにあるもののように思います。
言い換えれば、草花から木々、虫たちから動物にいたるまで地球に生息するものは地球のためにあるものです。地球のためというのは、地球であるということであり、私たちはその地球の一部として存在しているということを忘れてはいけないということでしょう。
いくら人間の社会の中で、大きな戦争などにより滅びそうなことが起きたにせよそれはあくまで人間の中で起きることです。しかしもしも巨大隕石など地球にとって致命的な出来事が起きれば地球の中にいる生きもの全てに影響がでてくるものです。
私たちは存在が大きすぎるものを意識することは少なくなっているものです。太陽や月、地球はあって当たり前、空気や水や土もそのままであるのは気にすることもないように思います。しかし、それが一つでもなくなれば、人間社会の問題どころではなくなりすぐに生命の危機にさらされてしまうのです。
よく考えてみれば、平和ボケというものは地球の一部であったことを忘れてしまうことなのかもしれません。世の中がいくら不安定といっても、本来の自然災害の危険に比べればそれは想像できるものだからです。
私たちは地球をコントロールすることなどできないはずですが、できると錯覚するのは人間だけの世界で物事を考えていることの証明なのです。そういう人間社会の枠組みの中で、居心地が良い状態が続くことで本来の自然ということもまた錯覚していくのでしょう。
一度、人間社会から離れて自然の一部であることを実感すれば苦しみもまた少し遠のくのかもしれません。聖人が自然と一体となる修行を行うのは、自然から学び、その自然を人心の中に透過していく必要がからでしょう。
自然を透過するといえば、自然の実践に長けていたかの空海もまた、そのような地球人としての生き方と具体的な仕組みを通して、この人の世が持つ様々な苦しみを見抜き地球の一部としての真理を表現し自然と人間の融和した生き方に貢献された方だったのかもしれません。
私たちは地球のものですから、地球のためにあるような生き方を考えていきたいものです。
地球人のいのちとしての実践とは何か、日々に気づきを改善につなげていきたいと思います。