人馬一体

昨日、流鏑馬の稽古の中で師より「人馬一体」ということについて指導がありました。

乗馬においてもまだまだ自身の身体がまったくついてきませんが、長い時間、引き合い気持ちやタイミングを合わせていく中で少しだけ学びの入り口を体験させていただけたようにも思います。

そもそもこの人馬一体とは、辞書には「乗馬において乗り手と馬が一つになったかのように、なだらかで巧みな連係が行われること」とあります。師からは、長い時間の馬との関わりの智慧をひとつひとつの言葉の中で教えていただけているのを実感します。

自分なりに、感謝のままに武の心を学んでいきたいと思います。

滑稽さの中に教訓と風刺をまじえて江戸時代中期に流行した「談義本」の祖とされる佚斎樗山に宮本武蔵『五輪書』とならぶ「剣術の秘伝書」に「天狗芸術論、猫の妙術」があります。

ここに人馬一体について書かれています。

問ふ 「何をか動いて動くことなしといふ。」 曰く「汝、馬を乗る者を見ずや。」よく乗る者は、馬東西に馳すれども、乗る者の心泰(ゆたか)にして忙しきことなく、形静かにして動くことなし。ただ、かれが邪気を抑へたるのみにて、馬の性に逆ふことなし。ゆえに人、鞍の上に跨(また)がって馬に主たりといへども、馬これに従って困(くる)しむことなく、自得して往く。馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、精神一体にして相離れず。これを鞍上に人なく鞍下に馬なしともいふべし。これ動いて動くことなきもの、形に表はれて見やすきものなり。未熟なる者は、馬の性に逆って我もまた安からず、つねに馬と我と離れて、いさかふゆえに、馬の走るにしたがって五体うごき、心忙しく、馬もまた疲れ苦しむ。ある馬書に、馬の詠みたる歌なりとて、

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり

これ馬に代りてその情を知らせたるものなり。ただ馬のみにあらず。人を使ふにもこの心あるべし。一切の事物の情に逆ふて、小知を先にする時は、我も忙しく、人も苦しむものなり。

これを石井邦夫氏が現代語訳しています。

「次のような質問があった。”動いて動くことなし”とは、一体どのようなことを言っているのであろうか。次のように答えて言った。あなた方は乗馬者をよく見るだろう。上手な乗馬者は、馬を東西に走らせても心は安泰でせわしいことはなく、その姿も静かでゆれ動くことがない。外から見れば、馬と人が一体になっているようである。

しかしそれは、ただ彼が自分の邪気を抑えているだけのことで、馬の性質に逆らうことがないのである。それだから、人が鞍の上にまたがって馬の主になっていたとしても、馬はそれに従って苦しむこともなく、納得して走っていくのである。

馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、気持ちが一体になってお互いに離れることがない状態、これを”鞍上に人なく鞍下に馬なし”とでもいうのであろう。これなどは”動いて動くことなし”ということが具体的な形に表れて、わかりやすい例である。

未熟な者は馬の性質に逆らってしまい、自分もまた安泰ではなく、つねに馬と自分の気持ちが離れて、争ってしまうために、馬が走るにしたがって身体が揺れ動き、心がせわしくなり、馬もまた疲れて苦しむのである。

ある馬術書に、馬が詠んだ歌として、次の和歌がある。

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり
(集中して走り込もうとすると引き止められ、手綱が口にかかって前に行かれないんだ)

これは馬に代わって馬の気持ちを伝えたものである。

ただ馬だけではない。人を使う場合にも、このような気持ちはあるであろう。一切の物事の状況に逆らって小賢しい知恵を先に働かせてしまうような場合は、自分でもせわしなく、他人も困らせてしまうものである。」(講談社)

古武道から学ぶ智慧は、今の人生を生きる智慧そのものです。

何事も分けずに道から教えが入っていることに感謝し、心のままに学びを深めていきたいと思います。