武士道精神

子どもの頃、父の影響で少林寺拳法を習っていたことがあります。約、4年間ほど通い色々なことを教わりましたが古武道を習い始めることでその時の記憶が甦ります。あの当時は、分からないことも子ども心には色々な教えが残っているものです。

少林寺拳法というものは、ただ相手に勝てばいいとか喧嘩をして負けなければいいというものではないことは習い始めてすぐに気づくものです。実際には、様々な行動規範を習います。私が一番驚いたのが、自分からは戦わないということを教わったときです。

では何のためにと思ったのですが、それは「力愛不二」という考え方があるからです。これは、慈悲心や正義感に溢れていても、力がなければ、誰かの役に立ったり、助けたりすることはできないということを教わります。また、そこにどれだけ力があっても、誇りや信念がなければ、正しい力の使い方もできません。

本物の強さというものは、相手を思いやることにあると教わるのです。相手を思いやるからこそ、守りに徹し、守ることから戦わないことを学ぶのです。

私は武道の本質というのは、それも思いやりや優しさから産まれるのではないかと実感します。無駄な戦いは避けたい、それは相手を思いやるからです。そして大切なものを守りたいと思うからこそ強くなる必要があるのです。

私の尊敬する師も、大切なものを守る時にはまるで不動明王のような威厳がでています。いつも圧倒されますが、あの強さは優しさや思いやりからだったということが理解できてきています。

正義というものも相手を思いやらない正義など、たいした正義ではないように思います。本物の正義とは、相手を思いやるからこそ御互いを活かし合い天に対しての正義=至誠を貫くことができるようにも思います。

流鏑馬の宗家からも先日、「本物の強さは戦わないことだ」と教えていただきました。

やはり古武道の源流は、自然一体の境地、つまりは「真心」にあるのでしょう。真心を学ぶには、優しさと強さを兼ね備えた真の武士道精神を持ち合わせる必要があるように思います。それを大和魂といい、ヤマトタケルから今の私たちまで連綿と継承した民族の血脈というものでしょう。

なぜ今、此処で私が古武道なのか、少しずつ意味が自明してくる中で、子どもたちを守れる真の強さと優しさを身に着けたいと実感しています。里が応援し、願いを届けてくださり未熟な私を鍛えてくださっていることを有難く感じています。

道に終わりはなく、道は無窮ですから今、来ているものに感謝しつつ歩んでいきたいと思います。