自然の一部

よく刷り込みの一つに、善悪や陰陽というものがあります。

人間は、自分を中心に右とか左とかを分けて考えてしまうものです。本来は混ざり合った渾然一体になったものを仕分けては、これは太陽だとか月だとか、小さなくなれば男とか女とかに分けて理解していきます。

本来、自然の一部であると認識すればそれはそのまま自然であるという認識ができますが分けたところから考えているから違うものとしてどうしても同じと思うことができなくなるのです。

宇宙というものも大きいものですが、宇宙を認識するのに太陽系とか銀河とか色々と目に見えるところを分けてはさも宇宙はそういうものであると認識してはじめて宇宙を語れると勘違いしてしまうのです。

そういうものをなくして、全てが一体善であるという風に考えることができればまた観方も考え方も変わるように思います。

先日、子どもが疲れて眠るのでどうしようかという話がありました。これは疲れていることを悪いと思っているから悩んでいるのであり、疲れることは善いことだと思えていないから問題が起きていたのです。本来は、子どもが疲れるのは決して悪いことだけではありません、一生懸命に遊びこんで楽しいからこそ、その後バタンと眠ってしまうのです。その疲れは、充実した疲れというものもあるのです。

大人が疲れが悪いと決めつける前に、疲れもまた善しと思えるかどうかはそもそもの自然の一部としてそのものを感じていれば理解できるように思います。自分の中にあるこうすべきだという決めつけが邪魔をすることでいろいろなことが歪んでいくのです。

他にも、ストレスは悪いものだと決めつけてストレスを毛嫌いしますがストレスがあるということは元気になっているということでもあるのです。多少厳しい中にいることで野生的な本能も働きだしますし、様々なものが自然の一部として感じることができます。野山に行き、自然に触れれば虫たちに攻撃されたり、寒暖冷気を浴びたりもしますが、その分、自分の内面にあるものが活性化していくのですからストレスもまた充実している方がいいのです。

病気でも然りで、病気とは自然治癒ですから病気になることを悪いと決めつけて自分を責めたりする人がいますが病気は治そうと身体が自然の一部として頑張っているのだからそれも悪いことではないのです。免疫のちからで、鼻水が出たり熱がでたりと気分はよくなくても身体にとっては治癒の最中ですから自然の一部なのだから幸福なことなのです。

天候と同じように、雨が降れば嫌がり晴れれば喜ぶというのは自分が中心になって自分の都合でそれを良し悪しにするだけであり、天候は常に善であるというのが自然であるように思います。雨が降れば、それまでの乾きを潤し、晴れればいのちに光を与えて満たされます。そのどちらにとっても善いことだと思えることが丸ごと一体善というものの考え方です。

これは良いとか悪いとかそういうものを思う前に、自分に矢印を向けて「全部善いこととして」取り組んでいるか、感謝の心で自他を思いやり「全部善いことにしよう」と遣り切っているか、そういうものの中に自然を実感する妙法があるように私は思います。

マイナス思考というものも、不安からくるものですが楽観的に善いことだと思えるのは感謝の心をいつも忘れないからかもしれません。すでに自然の一部であることは、天地は元の父母であるのだから安心の境地で善いことだと信じることが何よりも自然と一体であることなのかもしれません。

徳に報いるということが何か、徳も善なのだから自然でありたいと思います。