禮と義

中国、論語の一つに礼記があります。これは論語の四書五経のひとつで禮について書き記るされたものです。

仁、そして義、次に禮というように何よりも君子の徳が明らかになったことで顕現する真心の現れをそれぞれの言葉で表現しているように思います。実際はどれも分かれているものではないものですが、それをどの道から入るかが示されるように思います。

その礼記には、色々なエピソードが書かれておりその中から禮とはどういうことかということを学ぶのです。その一つ、特に印象的なものが大学を記した曾子の最期の場面です。

「曾子、疾ひに寢ねて、病なり。樂正子春、床下に座し、曾元、曾申、足もとに座し、童子、隅に坐して燭を執る。童子曰く「華にして睆なるは、大夫の簀か?」と。子春曰く「止めよ!」と。曾子之を聞く,瞿然として曰く「呼!」と。曰く「華にして睆なるは、大夫の簀か?」と。曾子曰く「然り,斯れ季孫の賜なり、我未だ之を能く易へざるなり。元、起ちて簀を易へよ。」と。曾元曰く「夫子の病、帮なり、以て變かすべからず,幸にして旦に至れ、請ふ、敬みて之を易へん」と。曾子曰く「爾の我を愛するや、彼に如かず。君子の人を愛するや徳を以てす、細人の人を愛するや姑息を以てす。吾、何をか求めん?吾、正を得て斃るれば斯に已まん。」と。舉げ扶けて之を易ふ。席に反りて未だ安んぜずして沒す。」

口語訳では、「曾子は病気で寢つき、危篤の状態だった。樂正子春は枕元にすわり、曾元、曾申は足もとに座り、子どもが部屋の隅に坐って燭台を守っていた。子どもは言った「すごく美しく輝いていますね、これは高級高貴な簀なんですか?」と。子春はすぐに「静かにしなさい!」と叱った。曾子はこれを聞いて驚いた様子で言った「ああ、そうだよ」。そして曾子は続けて「そうだ、この簀は季孫の殿が私に下さったものだ、私はまだこれを取り換えることができなかったのだ。曾元よ、立って来て簀を取り換えてくれ。」といった。それに曾元は言いました。「父上の御病気は重篤です、今はとても動かすことはできません、もし幸にも持ちこたえて朝になりましたら、謹んで簀を取り換えさせてください。」曾子は言った「お前の私への愛は彼(子ども)に及ばないのだよ。君子の思う人への愛は常に徳にこそ基づいている。小人の人への愛は間に合わせのありきたりなものだ。私が一体何の道を求めているのか、私は正しい道に適う行いをして死ぬのなら、もうこれでいつも死んでもよいと思っているんだよ。」と。そこで、皆で扶け起こして簀を換えてもとの席に戻って腰を落ち着ける前に曾子は亡くなりました」

曾子は「大学」の中で、「大学の道は明徳を明らかにするにあり、民に親しむにあり、至善に止まるにあり。」と徳を示していました。その徳に報いることを重んじた曾子の人柄を感じる話が礼記には紹介されています。

もちろん真心とは形式ではなく、その時、その場所、その状況によって示し方も変わりますがきっとここでは相手の立場になって思いやって行動したことを曾子が学問によって最期まで実践を尽くしたのでしょう。

お互いを察するということは、もしも自分が相手だったらと思いやることです。それは自分の立場ばかりを考えて保身に走るのではなく、もしも相手が自分だったらどんな気持ちだろうか?もしも相手は自分そのものであるのならどう感じるだろうかと自分と同じように大切にすることを言うのではないかと思います。

礼儀に問題があるというのは、言い換えれば自分のことしか考えなていないということでしょう。保身に走るのは、自分が一番かわいいからです。それを二番にする必要はないのですが、相手を一番にしていくことで自分もまた一番になっていくようにも思うのです。

お互いを慈しみ愛し、そして尊敬するという間にこそ真の禮もまたあるように思います。そしてそれを正しく実践することが義に近づくようにも思いますし、その先に仁の実践も徳の醸成もまたあります。

常に真心を優先して、損得利害の刷り込みに負けないように自らに打ち克って禮に復えりたいと思います。

 

自律と礼

ここ数日で自由のことを深めてきましたが、自由と同時に用いられる自律について自分なりに整理してみようと思います。

この自律というものは何かといえば、自由の中で自らが道徳的に人格を高め自ずから周囲への思いやりで行動することができることをいいます。これは他人に対する礼儀作法の礼のことです。

なんでも自由となれば、当然そこに法律というルールがあります。これは法によって律するという意味ですが、周りに迷惑をかけないようにこれが正しいというルールを社會によって定めます。たとえば、赤信号は渡らないのは法律によって従う義務があり、それを破るものは罰するという具合です。

しかしそのような法律は、いくらでも無限につくり設定することができますからもしもすべてを法律で縛ろうとすればするほどにこの世の中は暮らしにくくなっていくのです。今の時代は、見ての通りありとあらゆるところに変な法律が蔓延っています。道路交通法などというものも、何もここまでしなくてもというくらいきめ細かく出来上がっています。

危険をすれば法律で縛り、それを破れば罰するとしても本来の自覚が罰によっては芽生えないのだからイタチごっこは続くだけです。しかし人間自身の自律を育てていこうとしないのならば、永遠に法律でばかりで解決を検討しないといけません。法律さえ守っていればあとは全部自由だなどという考え方になってしまえば、さらに事態は悪化していくのは火をみるよりも明らかです。

だからこそ人間には自律というものがあります。

これは自ら自由の中で、如何に人格を高め一流人としての礼儀を弁える人物になるか、それを目指していこうというものです。江戸時代に流行した小笠原流礼法も、本来は武士の礼法だったものが庶民の中に反映され江戸しぐさなどという文化にまで発展しました。

お互いを自ら思いやり、行動していこう。その所作から作法から自らを律していこうとする、社會の中で他や仲間に迷惑をかけないということを尊ぶように自らが律していたのです。

よりよい社會というものには、あまり厳しい法律も罰則もありません。本来、治世が行き届き平和で安心な穏やかな社會は、お互いにつねにお互いを見守り合い、助け合い、譲り合い、協力し合い、相互扶助とつながりに満ちた幸福の和の社會です。

それは一人一人が自らを育て、人格を高めていく中で実現するように思います。

自律というものは主体的でなければできません。それは自らが自らでで周りのことを思いやり、愛に溢れた社會をどのように築いていくか、そういう人と人がつながりや絆、ご縁に感謝し感動し感激する社會をどのように育てていくかということであろうとも思うのです。

自分から自分を律するというのは、礼の心を学ぶということでしょう。

孔子は論語で礼をこう語ります、

「己に克ちて、礼に復るを、仁となす。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。」と。

かなりの意訳かもしれませんが、「自分自身の我儘を堪えて、自分を律し相手のことを思いやることで幸福な社會はできあがってくる。もしも一日自分に打ち克って誰かのために自律できるのなら、世の中は必ず思いやりに満ちるようになる。愛のある社會をつくるのかどうかは、あなた自身、そうあなた次第なのです。」

自由の中にある自律というものは、自分が社會の大切な一員だということを忘れないということです。その自分が法律だけにしたがったり、きまりは守っているのだからと自分勝手にふるまえばその陰に必ずその我儘を押し付けている誰かがいるのです。その我儘がさらに厳しい法律をつくり、そしてその我儘が社會から愛を奪うことにつながっていきつながりも絆も断裂させていくのです。

自分が愛されているという実感を持てる社會というものは、自律によって出来上がってくるように私は思います。そしてそれは自由の中でこそ真に試されるのです。自由だからこそ、如何に我儘を乗り越えて誰かのために自分を使っていくことができるのか。

人間はそういう時にこそ、道徳心が伸びていくのだと思います。自律を支えるというのは、自分を変えるということなのかもしれません。平和な社會の責任者が自分ということを忘れずに、礼と法を学びなおしていきたいと思います。

自由と責任

自由の関する責任についてもう少しだけ掘り下げてみます。

責任というものはそもそも人間を信頼しないというマネージメント下では押し付けられたり与えられたりするものです。世の中では、責任というものは取らされるという考え方をもっている人も多くいます。一人で多くを抱え込み、一人で全部の負担を負うようなことをするのもこの責任というものの認識がかかわっています。

しかしもし責任をそもそも人間を信頼するというマネージメント下で動いているとしたらそれは認められている証拠をしての責任感が育ちます。これは自分も組織の中で自立した一人として認められているのだからその役割や責任を果たしたいという具合です。周りが認めてくれているというのは、仲間のために協力したいと実感するということです。

信頼するというのは認めているということですが、自分が認められていると実感すればするほどに周りの人たちのために貢献したいと思うようになるのです。

これが集団というものです。そしてこの集団というものにも、そこにはどのような集団になっているかという理念によって集団での働き方も異なっているのです。

本来は集団というものは、お互いが認め合うところで集まって何かを為す組織です。そこがもし目的だけを重んじ、人間は卑下して効率や生産性のみを追求する組織になれば人は入れ替えがきくパーツのようになってしまいます。そうなると人は、信頼で関係を結べず誰かによって管理されることで集団を形成しようとします。そうなると個々がバラバラにならないようにすることがもっとも重要なマネージメントになるのです。

しかしもし集団が人間を尊重しつつ目的を達成するとなれば、非生産性な時間や非効率であってもそれが幸福につながるのならばと対話を大切にする組織になるのなら人間はますます周囲を信頼しその集団を大切にしようとするのです。

そうなれば管理するのではなく、見守り合い助け合い協力し合うといった組織になるのです。これは得意なところを活かしあいみんなで一緒に乗り越えていこうといった総力を合わせたマネージメントになります。

畢竟、責任というものはその人間がどれだけ自分を周囲へ貢献していこうとしているか、その社會の中で自分から周りのためにと協力をしていくかということに尽きるように思います。それは感謝が根っこにあるからこそ自分からもっと任せてもらえるようなことを実現したいと願うのです。

より善い社會貢献をしていこうと願う心に責任が一緒にあるのだから、責任を学び続けるためには常に認め合い助け合う風土を醸成していくことが何よりではないかと思います。自由というものは、信じるということです。

信じることが自由なのだから、信じられているからこそ自由を実感し、その自由を得ているからこそ自立しようと願う。そして自立できていると実感したとき、自分自身の責任に出会うのでしょう。

責任があるところには自由があり、自由があるところには自立があり、自立があるところには信頼があり、信頼があるところには感謝があるのです。

人間尊重の大切さというのは、お互いを同じ人間として大切にしていこうとする思いやりや真心があります。どのようなマネージメントを用いるかは、そのリーダーの考え方でしょうが人材を流用するだけか、それとも人材を育成するか、短期的にみるか長期的にみるかはその人次第です。

子どもたちの未来のことを思えばどちらを選べばいいのかはすぐに理解できます。保育や教育に関わる会社だからこそ常に責任を正しく理解できるように精進していきたいと思います。

道具の自味

先日、人吉にある日本で唯一の鋸鍛冶師「岡秀」の仕事を見学し鍛冶やその道具について話をお聴きする機会がありました。全国の山師が信頼を寄せるその鋸ですが実際に自分の手でその鋸を使ってみると驚くほどの切れ味と使い勝手に感動しました。

実際に鉄を打つ現場も見せていただき、その工程についても拝聴させていただくと大変複雑な工程を丁寧に一つ一つ心を籠めて手作りしている様子に、道具の作り手と使い手の真心を実感しました。

昔は、道具というものはその道具を用いる人、その道具を作る人が一緒になって創意工夫をし、その道具を育てていました。先人たちは、その用途にあわせ、また自分の技術や実力、器用さに応じてその場その時その性質によって道具を使い分けてきました。

農具などは、全国津々浦々のその土地の性質でまったく異なるものが作られてきました。その地方独特の道具が開発されてそれが代々受け継がれています。それと同時に各地方には鍛冶師がいて、道具を打ち直し、その道具のいのちを伸ばし、またその道具とともに伝統や歴史、その精神を受け継いできたともいえます。

同じ鋤や鎌、鍬ひとつとっても長さや重さ、そして形状、それは様々な性質を見抜いてはそれに沿って道具を工夫しているのを拝見すると昔の人たちは自然の見立て目立てができたということが観えてきます。

現在はホームセンターなどで画一化された道具や機械化されたものを使いますが昔の道具は人を選んでいたともいえます。だから道具も人も育てる必要がなくなったのでしょう。

昔の人たちは鍛冶からたくさんのことを学んでいたのがわかります、その証拠に鍛冶に関することわざがたくさんあるのです。

「鉄は熱いうちに打て」「付け焼刃」「頓珍漢」「焼きを入れる」「相槌を打つ」「しのぎを削る」「磨けば光る」等々、まだまだ相当数の言葉が遺っています。

それらの言葉が、お話を聴きながら自然に出てくることに道の職人の仕業の奥深さを体験しました。そして中でも印象深かったのは、「味」のお話でした。

「なんでも人は味わが分かるようにならないとその本質が観えない。切れ味は自分で確かめた方がいい。その道具の味がわかっている人にはすぐにその味の善し悪しがわかる」というのです。

何より今回の体験で鉄を打ち錬金する中にある「切れ味」という「味わい深い」世界が存在するということを知りました。切れ味がわかるようになるには、自らを研鑽練磨し、真剣勝負の実践の中で研ぎ澄まされた自味を育てていく必要性も実感しました。

自然の道具を人具一体に育て上げている職人に心から敬意と同時に、その道具を使いながら自分を育てていくという学びをこれから一つ一つ自助研磨しながら味わっていきたいと思います。

道具は思想そのものであり、その思想を使う使い手もそれによって活かされるということ。道具がちゃんと使いこなせるようになるには、道具が分かる人の生き方が身に沁みなければ近づけないということです。

私の作る様々なマネージメントという名の道具もまた、これと同じものなのです。道具を販売するのなら同時に道具の味わいが分かる世界を体験することがもっとも近道なのかもしれません。道具によって人を育てるという先人の知恵を活用しているからです。

有難いご縁に感謝しております、御蔭様でこれからの道程で手作業に入ることがより楽しくなりました。

道具から学び、その道具を深め育てて自己一心の道具を開発していきたいと思います。

 

 

自由という教育の本義

自由について掘り下げてみましたが、畢竟、自由は「責任」というものの自覚にたどり着くように思います。

そもそも自分自身の人生の責任を自分で持つということは当たり前のことですがもっとも難しいことと思います。責任というものの自覚も、感謝の自覚と同じく安易に知識で習得できるものではありません。

様々な人生の中での有難い体験を通して、一つ一つを実地で学び、その学びが何だったのかと慎み内省し、それを噛締め玩味し、消化し、排出してこそはじめて自分のものとして体得会得できるものです。

いくら頭で分かったからといってもそれが実地実践で体得会得したものではないのなら現実の世界ではそれはまったく役に立つことはありません。実践で役立つ真の知恵というものは、須らく自らが行動と実践により経験し掴み取った成果であり、何もしないで文字だけを読んでいても行動や実践の量が不足すれば単に分かった気になるのです。人生には訓練が必要ですがそれはめんどくさがらず謙虚な気持ちで全部徹頭徹尾体験するという向上心と志です。

そしてこの「責任」というものを学ぶためには、「自由」な環境が必要です。

人間は、自分の人生に責任を持つには他人のせいにはしないということを学び取らなければなりません。他人のせいになっている人生の責任は、所詮他人の仕業であり他人の責任であり、自分のことにはなっていません。それは自分自身の人生ではありません。

仕事でも同じく、自分の仕事だと思っていないというのは責任をはき違えているということです。これは自分のやること、これは自分のことではないという考え方はとても縛られた狭い視野での考え方です。本来は、丸ごとすべてが自分の仕事と思えているか、丸ごとすべてが自分の責任と実感しているかというのが正しい自覚というものです。

もっと簡単に言えば、自分の身に起きるすべての出来事は周りと一緒に動いている。世界は自分を含む世界であり、その世界にどう生きるかで世界は変わっていくという意識というものです。自分一人くらいは別に何もしなくてもいいではないかという意識では決してないという意味です。

たとえば、自由の環境下に人間が置かれてみますと自分勝手なことをやろうが何もしないがその人次第です。しかし、世界によく目を開き、自分が世界に存在する価値を自覚し、自分を存在させてくださっている皆様とのつながりを実感するとき、はじめて「自分の人生の責任」を自らが持たねばならないことに気づくのです。

そしてその自分一人の尊い人生を正しく歩まなければならないと直感したとき、はじめて責任を持つのは自分ではないか、責任を育てていくのは自分自身ではないかと常に教えが其処で入るのです。

これは責任は育てていくものだという考え方が大前提ですが、これは関係性の中で育っていく産物です。社會に出て社會人としての自覚を持つというのは「責任」というものを自覚するということに尽きるのです。社會に出てまでいつまでも学生ではないとよく新人が叱られるのはこの社會性の中にある自らの存在の責任の自覚が伴っていないと言われているのです。

そしてその責任とは、他人から与えられる責任ではなく、自らが自覚する責任感、つまりは責任感とは社會の中で自分が存在することに対する正しい自覚、自分の人生の責任を果たすということです。

自分の人生の責任を果たすというのは、自分にしかできないことで世の中に貢献するということです。シンプルに言えば、「つながっているのだから毎日出し惜しみせずに全身全霊で精いっぱい自分を出し切り役割と全うする」ということです。

そうやってはじめて自分の人生の責任は、自由な環境によって醸成されるものです。

自由という信に満ちた環境があってはじめての個々の自立と自律なのです。本来のリーダーが自由に生きるモデルを示すのに「自由にしていい責任は自分が取る」というのは、奥深いことで自他が自立することをそのリーダーは自らで信じているのです。

信じるという実践を形を変えてリーダーが示すもの、それが自由なのです。

信の顕現である感謝の心のように、この責任の心というものもいのちの幸福を目指すものです。自由な環境下で仲間たちと一緒に自分の責任を果たせる人というのは、見守り合う中で信じ合った絆を優先するために自分を律し自立できた人です。

畢竟、自分の人生を信じられる人だけが自分の人生の責任を持てる人なのです。

自由をテーマに、人間形成と人材育成の教育の本質を引き続き深めてみたいと思います。

個性の尊重~人生を信じるということ~

自分の人生を疑わない姿勢というものは何よりも大切なものであろうと思います。

自分のやりたいことがわからないということで悩むのは、自分のやりたいことを無理やりにつくってきたからともいえます。あらゆることの制限の中で、自分のやりたいことはこれだと無理に教え込めばそれは刷り込みになるのです。

以前、子どもの学校の話で夢を持たせるというものがありました。時間内に夢を決めてきなさいと言って授業参観で報告させるという内容です。夢がないので周りの子どもが書いているものに合わせて書いたという子ども、親が言うとおりにしたという子ども、だいたい身の回りにある職業から決めたという子どもがありました。

本来は自分のやりたいことの先に自分の夢があるのですから、やりたいことは自然に出てくるというのを待つということを信じるということです。しかし、今の世の中では先に何かがあってからでないと頑張れない、結果が先という概念が横行しているようです。結果ありきであれば、努力の真価やその有難い機会に対する感謝なども感じられなくなるでしょう。私にはどんな成功者も結果意外のものを追っている人という定義がありますから、成功の定義を教える人が成功したことがないので分からないままに教えているのかもしれません。

本来の自分の天性というものは、天が与えるものです。たとえば、産まれてから分かれるものに男性女性からその先の個性に至るまで自分の性格というものは天地一体の役割の中で確かなものが存在しています。

その役割がどのようなものかとわくわくドキドキと楽しもうとすることが夢につながっているのではないかと私には思えます。他と比較したり、単に客観的に評価されている世の中の成功者のようになろうとしても、その通りの役割が自分にピタリと当たるのはほんの偶然の産物です。ほとんどの人は自分自身の人生とは異なるものを探し求めては、自分の足元を深く掘り下げようとはしないのです。

あるがままの真の自分自身になるということは、自分の役割を正しく果たしているということです。それは丸ごとの人生を疑わないということであり、自分の個性を尊重して性格を育てていくということです。

それを自分が先にこんなはずではなかったとか、あの人と比べて自分はまだこの程度などと人生に文句を言えば、自ずから個性を否定していることになり、自分自身ではない他人の人生を自分の人生だと勘違いして生きてしまうことになるのです。

自分の人生というものは、今、与えられているすべての機会を自分のものだと信じることです。言い換えれば、そのお役目そのものが尊いということです。どんなお役目であれ、自分に役割があるということを思えばそのもの自体がかけがえのない大切なものをいただいていることに自明します。

人生には無駄がないというのは役割があるという意味です。どんな体験であれ、自分の今いる此処で全身全霊、精いっぱい生き切ったならばそれは天寿を全うしたのだという有難い恩恵の中にいたということでしょう。

誰かと比較し早死にとか病気だとか、他にも色々と不満があるかもしれません。しかしご縁という世界から物事を観れば、一期一会に与えられているつながりに心から感謝できるものです。あなたがいるから私がいる、私があるからあなたもいる。どちらも一生懸命に真摯に人生を生き切っているというのが絶対安心の境地、人生を信じるということでしょう。

疑わないというのは、ありのままの自分自身になるということです。

信じたものが子どもたち一人一人の個性を育む環境につながっていることを忘れずに、見守る環境や子ども第一主義の伝道に自信をもって命を懸けていきたいと思います。

自由自在~性格との邂逅~

先日、芥川龍之介の「運命は性格の中にある」という言葉に出会いました。

これは自由というものを深めている中でとても大切なキーワードではないかと思います。自由というものを引き続き深めていますが、自由というものはその理解も言葉の定義も使う人によって異なります。

世間では一般的には、不自由に対しての自由で用いられます。これは自分を縛っているものから解放されるという意味や、自分の思い通りになることを自由とも言っています。しかしこの自由というものは与えられる自由のことを刷り込まれているだけで本物の自由とは程遠いものです。

刷り込みの自由というものは、何かと比較しての自由であったり、何かよりもましだと実感するときに与えられるものです。他にも権力や管理によって、その中で与えられたものも自由だと思い込んでいるのです。

では真の自由とは何でしょうか?

それは自分自身になるということです、自分らしくいるということです。これはあるがままの自分になるということ、自由自在の自分でいるということです。これを孔子は、50にして天命を知るとありますがそれだけ内省が深まり、自分自身の性格を悟ったということなのでしょう。

私はまだまだよくわかっていませんからあと十数年の学問の楽しみがあります。

性が象ったものがどのようになるのか、それは自分がどのようなものかを言います。自分の性が何を求めて、自分の性がどこに向かうのかを自らが知覚するとき運命というものが顕現するように思います。

つまり性格というものは、その運命によって象られる。自分の性格次第で運命が決まるという意味なのでしょう。その性格をどのように育てていくか、それが本来の学問の意味なのかもしれません。

性格を善くしていくには、元来の性格の善さだけではなくその性がどのように伸びたいのかに随って自らの道を正しく修めていく必要があります。正しく体験するというものですが、これは自らを磨き続けて自分自身になっていくということです。

この自分自身というのは、本来は産まれながらに純粋な自分の魂をより磨き、その魂の穢れを取り払い続けるように心を清らかに澄ませていくことで自分とは何かを悟るようなものです。

一つ一つの事件も出来事も、その人の性格が出ているともいえます。その人にしか起きない出来事はその人の性格がそれを呼び込むのです。性格が善くなるというのは、自分自身との真のつながり、本物の自分になるということを意味するのでしょう。

人は出会いによって自らを高めていきますから、自分の性格が何と出会っているのか、そこには本当に深い関心があります。これからも自らの直感のままに自由自在のかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

主体性とは

自由と自立にとって何よりも重要である主体性について深めてみます。

私たちは幼いころから、与えられたものの中で何かを行うように何度も訓練されてきました。教育によって与えられた環境と与えられた課題によってそれをきちんと遂行することで評価されてきたともいえます。

つまりは先に相手から与えられることが大前提で、与えられてないものを自ら先に行うということをあまりしてきてはいないのです。言われたことはやるけれど、言われていないことはわざわざやろうとはしないのです。今の教育ではそういうモチベーションは育ててきていないといっても過言ではありません。

そういう中でいきなり自由な環境があって「なんでもやっていい」といわれても、どうしていいのかわからなくなり身動きしなくなるのはそれまでにそういう体験をあまりやってきたことがないからです。

本来、自由な環境を活かすというものは誰かによってまず与えられてからやるものではなく、与えられなくても自らの意志で遣りたいことがあるということです。たとえば、志があるからこそ道を求めては自らが新たな道を切り開くという具合にです。

そして主体性というものの責任は、与えられる責任ではなく自らが世界や人生への責任を持つということです。誰のせいにもせず、何かのせいにもしない、自分の全人生が丸ごと自分の責任となったときはじめてその主体が全人格の自分自身と一致するのです。

その人が志が立っていれば、自ずから主体性は引き出されていくものです。しかしその志が弱ければどうしても与えらる中でや、誰かによって動かされる中でしか自分を動かし発揮していくことができなくなります。

本来の自分を存分に発揮するには自由が必要であり、その自由の中で主体性を発揮していることが自立であり、それが自分らしく自分にしかできないことを実現し、そのプロセスこそが世界でたった一つの自分にしかできないことで世界へ貢献することになるのです。

人間がありのままで生きるということは、何も思い通りになることでも何もしないで与えられることでもありません。自らが自らの人生を真摯に求めているからこそありのままになるのでしょう。

これを論語、「中庸」ではこう記されています。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子そのみざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐くす。隠れたるより見(あらわ)はなく、微(かす)かなるより顕(あらわ)なるはなし。是の故に君子その独りを慎むなり。」

天の命じたものが性といい、その率うをこれを道という。本性から遣ろうとするからこそ今の道に出会っているはずですがこれが実際の人生と道が一致させることができずに人は疲弊しているのでしょう。主体と本性が一致するのなら、それは道です。その道を修めたものが教え、そしてそれを育むと書いて「教育」です。そしてそれが実現してこそ一人一人の人生の主体性が存分に発揮されているということになるのです。

本当に今、此処が道だと思っているか、だからこそ独りを慎むということがどれだけできているのかを何よりも内省するのが君子なのでしょう。

子どものころは、やりたいことが本当にたくさんあるものです。あれもこれも全部やりたいと思うものです。自由というものの真価、何でもやっていいという有難い環境があることに感謝できるのです。

まさに人生のキャンパスは白紙、そこにどのような絵を描いている最中であるのか、それは単に新しいことをやればいいというわけではなく、本当に脚下の実践を大切にし自分に与えられた天与の道を丹誠を籠めて日々に歩んでいるのかという意味でしょう。

自立とは、一人一人の幸福、そして社會の幸福、言い換えれば全人類全世界の幸福に直結しているものです。

主体性とは、「性」が主体と書いて字の如くです。

自由と自立の本義を改めて確かめ直して時代の教育改革に挑戦してみたいと思います。

自然循環~感謝の絆~

全世界の人間環境問題のことがニュースで流れるといつも心が痛みます。

今の環境がこうなっている責任は今を生きている私たちの責任です。子どもたちのことを思えば思うほどに、何を遺しているのが自分の生き方なのかと向き合うことばかりです。

昔の先祖たちは智慧があり、自分たちがどう生きることが子孫の繁栄と発展につながるのか、そして種を遺すためにどんな今を遺せばいいのかを真摯に取り組んできたように思います。

自然の中から、どうすれば何千年も生きていけるのか、生き残れるかと何よりも悠久の時間を観ては長く広い視野で物事を見つめていたように思います。その自然の叡智を自分たちの生活にまで還元し転換することで代々の生活を見守ってきたように思うのです。

それらの文化は何よりも優しさと思いやりに満ちており、共生と貢献の自然の仕組みにピタリと合っているのです。それを民族の歴史ともいい、そういった祖神たちの徳恵によって私たちの今は存在するのです。

それを御蔭様といい、先祖たちの御蔭で今の私たちが存在しておりますという意味です。

その恩恵に感謝するほどに、お返ししようにも直接はできないのだから子どもたちにそれを遺そうとするのが感謝の絆なのです。言い換えればこの「感謝の絆」こそが「自然循環」のことです。

昔は成人したならば、残りの人生は子どもたちのために生きなさいという言い伝えがありました。これも成人までできたのならば、子孫のために自分のいのちを使いなさいという意味でしょう。自分が生きられ活かされ感謝できるようになるのなら、子どもたちに何が遺せるのか自分のいのちの使い道をよく考えるようにという伝導があったのでしょう。

今を生きる私たちは自分のことばかりを考えがちです。しかし自分が今まで育ててくださった偉大な存在に対してどう思っているのでしょうか。その存在があるからこそ今があるのなら、自分にしかできないことでお役に立とう、そしてそれは子どもたちのためにより善い世界を譲っていこうと考えることでしょう。

子どもは絶対的に人間や環境や社會を信じてこの世界に産まれてきます。その子たちにどのようなモデルを示せるか、どのような生き方を真似してほしいか、それは今の大人たちが自覚しているはずです。そういうものを道徳というのかもしれませんが、より善いものを譲る中にこそ、祖神の徳が満ちているのです。

全部自分一人で世の中を変えることは難しいかもしれません、しかしその方法や仕組み、生き方は多くの人たちに遺せます。

それを私は子ども第一主義と定義しています。

自然循環の源になっている自覚を忘れないように、ご縁を弘げ実践を高めていきたいと思います。

自由と自立

人間は、常に安心を求めて生きているものです。当然、不安なままでいたいと思う人はいないと思います。しかしその不安は何から来る不安であるかを見つめることは少ないように思います。

たとえば自由というものがあります。一般的には、規律やルールがあってある程度、その雰囲気に合わせれば安心していられるというのは自由に伴う錯覚の一つであろうと思います。

主体性というものは、相手に期待したり組織や会社が与えてくれると勘違いし続けることではなく自らの決断と覚悟と自発的な行動によって切り開いていくことを言います。

いくら自由を与えられても、自分が楽しんで切り開こうとしなければその自由の環境もただの宝の持ち腐れになってしまうからです。人から認められている環境下では、やるのも自分、やらないのも自分ということに気づかなければなりません。

自分から進んで色々なことを挑戦していいというメッセージが自由と自立の中には存在します。誰かによって与えられ、誰かによって評価されるためにやろうというのは受動的に言われたことをやろうという意識です。

この意識は確かに失敗もないのだから無難ですし、何も起きませんから現状維持ができるのです。しかしこの現状維持の中に「道を切り開く」という楽しみがあるのかということなのです。

指示命令を与えてくれるのを待つくらいなら、どこか理想の指示命令を出してくれる組織に転職した方が人生が活かせるのかもしれません。もったいないと思います、自由を持つ組織が与えるものは指示命令ではなく「チャンス」です。チャンスを与えてもらっているのを活かせるかどうかは自分自身であり「自分次第」です。

人間はたった一人のたった一回の人生をどのように自らが主人公になって責任を持つかということが教育の真価のように思います。この誰のせいにも環境のせいにもしない、「自分の責任を自分で持つ」ということができてはじめて自由と自立が適ってきたともいえるように思います。

自分が責任者(=リーダー)なのだから、自分で責任を取るという覚悟があるかということです。いつまでも誰か任せ、いつまでも何にも試そうともせずに縛られたままで果たして真の自立ができるのかということでしょう。

自律ということは、外圧で用意されたルールや規則に従うから自律ではないと私は思います。単に自由が自分の思い通りと思っているのなら、それはまだまだ縛られている証拠でしょう。

自分自らが責任を持ち、自らを律することで周りの環境に左右されず自分らしく自分を信じて道を生きていくことができることを自律というと思っているのです。

その情熱は、常に道を切り開くのは自分という足取りを已めないことで燃え続けます。

畢竟、自由も自立も自分の天命や使命、役割や役目を果たそうと自分にしかできないことを遣り切る力を持っているかということに他なりません。何のための自由と自立かといえば、自分らしく生きることがもっとも世界に貢献するからそこを目指すのです。

怖がっているだけでは何も変わりませんし、これでいいと周りに合わせているだけでは何も動きません。思い切って自分から主体的に道を切り開こうとする人にだけ、確かな今と輝かしい未来が顕れはじめて「自由自在」の自分を顕現させることができるのです。

何をやってもいい環境、責任をリーダーが取ってくれる環境、その有難さというのは「思う存分に生き切っていい」と励まし応援してくれる環境があるということでしょう。自然界と同じように、地球に棲まう私たちが、どれだけポジティブに「チャンス」を与えてくれていると実感するかが自由でもあり自立につながる道筋でもあるのでしょう。

自由ということは生きていく上で、「主体性」を示唆する重要なテーマです。子どもたちの行動からたくさんのことを学び取り、世の中がチャンスに満ちていることを伝道していきたいと思います。

いつも励まし支援し、そして見守り、背中を押してあげるような存在になりたいと思います。