循環の見性

自然に身をおき、自然と共生して農を行う実践をしていると如何に自分から自然に近づき、そして自然と一体になることの有難さを実感します。それと同時に都市に身を置き、人間社会に身をおき人間と協調しながら行う実践もまた有難さを実感します。

しかし都市の方では実感できないものがこの野生の自然の中に存在するものです。

人間は思い通りになることや思い通りにすることが最善のように感じるものです。特に都市の中では人間がルールを定め、そのルールに従って社會を存在させています。目に見えるところがうまく機能していれば、また大多数の人たちが快適であるならばうまくいっていると思わせています。その反面、目には見えないところで様々な不自然を発生させています。

たとえば、先日都内の下水道を見学する機会がありました。その際に、如何に私たちが日々に下水に流すゴミがどのように処理されて海に流されるのかを確認すると、いくら科学が発展したからといっても許容量を超えるものを力技で乗り切ろうとしてもそこにはどうしても不自然があるのだということを実感したのです。ほかにも産業廃棄物の問題も、ゴミ問題もそうですが見たくないものは見せないという都市の中で問題は起きていないようにしてしまうのが都市化ということでしょう。

人間は都合が悪くなると、見なかったことにしたり、見えなくすることで意識にもあがってこないようにするものです。もし下水がなかったなら、川がむき出しですから流している汚物が悪臭を放ったり、川の生き物が死滅して浮いていたならば、怖くて簡単には洗剤や油などを流せるはずはありません。

そもそも生き物はいないということが大前提ですからそうなるのでしょうが、結局は海に出たときにはその処理されたものが流れ出て、ゴミは加工したものを最終的にはどこかに廃棄集積されているのです。

それに比べ、自然界の中には一切の無駄もゴミも発生することはありません。自然の許容量の中で循環し、目に見えるところでその作業がすべて行われます。生き物たちも自分たちの精いっぱいの生活が他の生活を支援することを知っています。

一つ一つのいのちは、自然の循環の中に生きていて等身大でかつ清浄です。たとえ思い通りにいかなくても、それぞれが自然に合わせて野生しているのです。そこにはありのままにあるがままにいても全部丸ごと完全に善いことにしてくれる環境があるのです。

自然界には天敵がいますが、その天敵とは自分さえよければいいという欲のことです。この欲が出てくれば循環から外れますから自らで自らを滅ぼしてしまいます。なので、自然淘汰といって自然の循環に帰るように自らで数を減らしていくものです。そのために、天敵に頼り、身を任せたりもするのです。

人間の天敵も同じく人間ですがその欲を助長するのは、見えなくすることなのでしょう。自然の循環を見えなくすることで、どこかを隠してしまうことで人間は騙されてしまうのです。全部を見通せば自然に帰ることができるのでしょうが、どこかを隠すから不自然になるのです。

言い換えれば「なかったことにする」ということで不自然は広がっていくのです。歴史も然り、環境も然り、生き方も然り、決して誤魔化したり隠したりできないものですから、真実を直視して如何に自らを大いなる自然の循環に合わせていくかでこれからの人類の存続がかかっているように思います。

真理とは誰かに操作されるものではなく、自然体になることを学ぶ中で出てくる単なる形です。

せっかくこれだけのことを遣らせていただいているのだから、人類も成長して方向が大転換する学び直しができないものかと考えています。本当に豊かな社會を人間が調和するならば自然はより明るく緩やかに楽しめるように思います。

教えられることばかりでまだまだ形にできませんが、有難く実践から学び直していきたいと思います。