人は自ら学んだものでなければ本当の自分のものにはなりません。誰かから先に教えられた知識というものではそれは分かった気にはなりますが自分の知識にはならないからです。
たとえば、礼儀などについても先にこうしなさいと礼儀を教え込まれて形式上はできるようにはなりますが本当にそれが必要で大事なものかどうかが分からずに教え込まれればすぐに忘れてしまうのと同じです。
本来、人間にはやる気というものがあります。それは自分に必要なことだと認識し、自分がやってみたいと思う心が具わっているということです。これを好奇心とも言います。この好奇心が失われているからやる気が出てこず、そのためにマニュアルのように教え込む必要が出てくるのです。これを人材育成と勘違いしている人がいるのも今の時代の教育の刷り込みだろうと思っています。
もしもこのまま教え込むことを続けていけば、いつまでも自ら学ぼうとはしませんから教え込んだ知識の中でそれを覚えてもらうという方法をとることになります。これは学校の勉強と同じく、知識というものの訓練によって身に着けさせる方法の一つですが、それは本当に学びたいかどうかという本人の主体が出ていなければ本来の学問をしていることにはならないのです。
この相手がまだ求めてもいないのに教え込むというのは、先に知ることによって分かった気になってしまいます。分かった気になればそれ以上は知ろうとはすることはなく、物事の道理が深まっていくことがありません。単なる物知りになったとしても、自分自身が一体どうしたいのかが分からないままでは社會にどのように自分が役に立つのかを自覚することも難しくなっていきます。
常に自分が求める心があり、それが知識と結びつき、そして実体験を通して学ぶときにだけそれは自分のものになるのです。この自分のものにするというのは、「自分が自らで体験したことが何であったかと学ぶ」ということです。
これは教えられるものではなく、気づくものです。
教えられることで気づくのは、教えられているのだから自分のものにはなりません。その人の気づきに対して知識が驚いているのです。しかし自分から気づくことを教えられるのであれば、それは自分自身の気づきによって発見するのですから心が納得しているのです。
人間というものは、畢竟、たった一つの自分の人生というものを歩もうとするように実感します。
その人がこの世に産まれてきた意味を自分自身は何よりも自覚したいのです。
誰かによってそれを押し付けられることよりも、自分自身で気づきたいのです。それが人生の意味だろうと思います。どんな意味深い人生を送れるのか、好奇心はそれをいつもわくわくドキドキと楽しみにしています。
その好奇心にゆらゆらと遊びながら学問をすることで人は真に自分からの教えに出会います。
教えに出会うことで、人はこの世の道理や真心が息づいていることに感動します。
人が学ぶというのは、人生の意味を確かめるということなのでしょう。
人生の意味付けは自分次第なのですから、変に誰かを教え込もうとしたり、変に誰かに自分が教え込まれないように常識を遠ざけ、自学自悟を徹していこうと思います。