自他中心の世界

人間は利己的な生き物です。

まずは自分のことを考えてしまいますから、気づくといつも自分が一番大変なのではないかと考えるようになってしまいます。特に忙しく、自分のことしか考えられなくなると周りへの思いやりに欠け自分から孤立してしまいます。

人は自分のことは自分ですからよくわかります。自分がどれだけの思いをしているかとか、周りは分かってもらえないとか、自分だけなぜこんな目にとか思いやすいのです。しかし実際は自分だけが大変ではなく周りの人たちも大変なのです。

たとえば、自分が忙しい時は周りは暇そうに見えるものです。それは自分が忙しいからそう見えるのです。逆に自分が暇なら周りはなぜあんなに忙しいのだろうと思ってしまいます。これは自分を中心に考えるからそこを基準に周りを見るからそう見えるようになるのが道理です。ほかにも、自分が楽しくないときは周りは楽しそうに見えたり、自分がつらい時には周りは楽をしているように見えたり、自分が貧しいときは周りが裕福そうに見えるのも同じく自己中心的に物事は見えてしまうのです。

しかし実際はどうかといえば、みんな大なり小なり人間はみんな等しく同じように喜怒哀楽様々な感情がありますし、それぞれの価値観にそって苦しいことも辛いことも嬉しいことも楽しいことも日々に浮いては沈んでいるのです。

大事なことは、自分だけがという考えに陥らないことのように思います。

論語に人生において仁を実践するのにとても大事な一説があります。

「子曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」

これは私の意訳ですが、「孔子は言う、人が自分のことを分かってくれないと嘆き悲しみ憂うよりも、自分が周りの人たちのことを思いやり共感していないことをもっと憂いなさい。」と。

なぜ自分だけがとか、なぜ自分がこんな目にとか、そう思うときは、周りとのつながりを自らが断ち切って自分の殻の中に閉じこもってしまっているのです。そういうときこそ、誰かのためにや他人のことを自分のことのように思いやれる優しさや強さが人間として必要だということでしょう。

他人を思いやれるというのは、自分が満たされているからできるのではありません。人を思いやるというのは、自分も大変だからこそみんな人は大変なのだと共感し受容して自他の人生が幸福になるように祈り行動することのように思います。

それはまるで家族が平和で幸福に暮らしていけるように自らのお役目や役割を果たそうと真心を優先する生き方のことでしょう。

今の時代は、つながりが弱くなり、しかも受信する力も麻痺してきています。如何に自らが積極的につながり、そして自らが発信していくかということが思いやりの絆を深めていくのには重要です。

それらのことはまずは周りを分かってあげたいといった思いやり、きっとみんなも大変なのだろうと共感していこうとする姿勢、その人の感謝の実践によりその自他中心の世界が観えてくるものなのかもしれません。

自分の心配をするよりも大切な人たちの心配をしている自分の方が人間は自分のことが好きになれるように思います。忘れてはならないのは、そういう自分も周りが支えてくださり活かしてくださっているからあるのですから周りに還元していくのはそのことを思い出させることになるのでしょう。

常に初心は真心や思いやりで感謝を忘れない自分でいたいと思います。