自然を相手にしていると、如何に自分が小さな存在であるのかを実感します。
土を耕し、作物の種を蒔き、育てていても自分が何かをしたからそうなるというよりも自然がそのものを育て活かしていくのに感謝していくことしかできません。自分がいくら何かをして動かした気になったとしても、それは周りの環境がまずあってできるということです。
人間には自分の価値観がありますから、自分が思っているような世界を自分が生きているのは誰にせよ同じことです。しかし、その価値観がどうなっているか、自分の思い通りにしようとしていないかということはメンテナンスがいるように思います。
思い通りにしようとすればするほどに、如何に天に見守られ自然に活かされているかを忘れてしまうからです。
自分だけが大きな存在だと勘違いしたり、自分が分を弁えずに傲慢になったなら、何でも中心は自分の判断基準を最上だと思い違いをします。自分が見ている世界など、ほんの目先の小さなものであることに気づけないということが可能性を狭めていくのかもしれません。
世界を広く観るというのは、自分から見た世界を最上とするのではなく、何か偉大なものによって自分が存在させてもらっているつながりの中にいて観るということなのでしょう。
つながりというものは、片時も自分から離れません。そしてその偉大な羅網のような網目の中に自分が存在していて無限の宇宙のように広い世界を体験するのです。
そして何もしていなくても与えてくださっている存在に気づくことで、自分がやっているのではなく、自分にさせていただけるのだということにも同時に気づきます。つい遣っている気になりますが、本当の有難さというものはこのような体験をさせていただけている不思議をいつも与えてくださる大きな存在のことでしょう。
自分が小さな存在というものは、だからといって卑屈になるという意味ではありません。大きな存在の中にある小さな存在の自分が、何より偉大な存在の一部であるということです。
だからこそ自分を大切に、自分の一つ一つの生き方をつながりを中に置いていきたいと思います。