人間は、常に安心を求めて生きているものです。当然、不安なままでいたいと思う人はいないと思います。しかしその不安は何から来る不安であるかを見つめることは少ないように思います。
たとえば自由というものがあります。一般的には、規律やルールがあってある程度、その雰囲気に合わせれば安心していられるというのは自由に伴う錯覚の一つであろうと思います。
主体性というものは、相手に期待したり組織や会社が与えてくれると勘違いし続けることではなく自らの決断と覚悟と自発的な行動によって切り開いていくことを言います。
いくら自由を与えられても、自分が楽しんで切り開こうとしなければその自由の環境もただの宝の持ち腐れになってしまうからです。人から認められている環境下では、やるのも自分、やらないのも自分ということに気づかなければなりません。
自分から進んで色々なことを挑戦していいというメッセージが自由と自立の中には存在します。誰かによって与えられ、誰かによって評価されるためにやろうというのは受動的に言われたことをやろうという意識です。
この意識は確かに失敗もないのだから無難ですし、何も起きませんから現状維持ができるのです。しかしこの現状維持の中に「道を切り開く」という楽しみがあるのかということなのです。
指示命令を与えてくれるのを待つくらいなら、どこか理想の指示命令を出してくれる組織に転職した方が人生が活かせるのかもしれません。もったいないと思います、自由を持つ組織が与えるものは指示命令ではなく「チャンス」です。チャンスを与えてもらっているのを活かせるかどうかは自分自身であり「自分次第」です。
人間はたった一人のたった一回の人生をどのように自らが主人公になって責任を持つかということが教育の真価のように思います。この誰のせいにも環境のせいにもしない、「自分の責任を自分で持つ」ということができてはじめて自由と自立が適ってきたともいえるように思います。
自分が責任者(=リーダー)なのだから、自分で責任を取るという覚悟があるかということです。いつまでも誰か任せ、いつまでも何にも試そうともせずに縛られたままで果たして真の自立ができるのかということでしょう。
自律ということは、外圧で用意されたルールや規則に従うから自律ではないと私は思います。単に自由が自分の思い通りと思っているのなら、それはまだまだ縛られている証拠でしょう。
自分自らが責任を持ち、自らを律することで周りの環境に左右されず自分らしく自分を信じて道を生きていくことができることを自律というと思っているのです。
その情熱は、常に道を切り開くのは自分という足取りを已めないことで燃え続けます。
畢竟、自由も自立も自分の天命や使命、役割や役目を果たそうと自分にしかできないことを遣り切る力を持っているかということに他なりません。何のための自由と自立かといえば、自分らしく生きることがもっとも世界に貢献するからそこを目指すのです。
怖がっているだけでは何も変わりませんし、これでいいと周りに合わせているだけでは何も動きません。思い切って自分から主体的に道を切り開こうとする人にだけ、確かな今と輝かしい未来が顕れはじめて「自由自在」の自分を顕現させることができるのです。
何をやってもいい環境、責任をリーダーが取ってくれる環境、その有難さというのは「思う存分に生き切っていい」と励まし応援してくれる環境があるということでしょう。自然界と同じように、地球に棲まう私たちが、どれだけポジティブに「チャンス」を与えてくれていると実感するかが自由でもあり自立につながる道筋でもあるのでしょう。
自由ということは生きていく上で、「主体性」を示唆する重要なテーマです。子どもたちの行動からたくさんのことを学び取り、世の中がチャンスに満ちていることを伝道していきたいと思います。
いつも励まし支援し、そして見守り、背中を押してあげるような存在になりたいと思います。