自由と自立にとって何よりも重要である主体性について深めてみます。
私たちは幼いころから、与えられたものの中で何かを行うように何度も訓練されてきました。教育によって与えられた環境と与えられた課題によってそれをきちんと遂行することで評価されてきたともいえます。
つまりは先に相手から与えられることが大前提で、与えられてないものを自ら先に行うということをあまりしてきてはいないのです。言われたことはやるけれど、言われていないことはわざわざやろうとはしないのです。今の教育ではそういうモチベーションは育ててきていないといっても過言ではありません。
そういう中でいきなり自由な環境があって「なんでもやっていい」といわれても、どうしていいのかわからなくなり身動きしなくなるのはそれまでにそういう体験をあまりやってきたことがないからです。
本来、自由な環境を活かすというものは誰かによってまず与えられてからやるものではなく、与えられなくても自らの意志で遣りたいことがあるということです。たとえば、志があるからこそ道を求めては自らが新たな道を切り開くという具合にです。
そして主体性というものの責任は、与えられる責任ではなく自らが世界や人生への責任を持つということです。誰のせいにもせず、何かのせいにもしない、自分の全人生が丸ごと自分の責任となったときはじめてその主体が全人格の自分自身と一致するのです。
その人が志が立っていれば、自ずから主体性は引き出されていくものです。しかしその志が弱ければどうしても与えらる中でや、誰かによって動かされる中でしか自分を動かし発揮していくことができなくなります。
本来の自分を存分に発揮するには自由が必要であり、その自由の中で主体性を発揮していることが自立であり、それが自分らしく自分にしかできないことを実現し、そのプロセスこそが世界でたった一つの自分にしかできないことで世界へ貢献することになるのです。
人間がありのままで生きるということは、何も思い通りになることでも何もしないで与えられることでもありません。自らが自らの人生を真摯に求めているからこそありのままになるのでしょう。
これを論語、「中庸」ではこう記されています。
「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子そのみざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐くす。隠れたるより見(あらわ)はなく、微(かす)かなるより顕(あらわ)なるはなし。是の故に君子その独りを慎むなり。」
天の命じたものが性といい、その率うをこれを道という。本性から遣ろうとするからこそ今の道に出会っているはずですがこれが実際の人生と道が一致させることができずに人は疲弊しているのでしょう。主体と本性が一致するのなら、それは道です。その道を修めたものが教え、そしてそれを育むと書いて「教育」です。そしてそれが実現してこそ一人一人の人生の主体性が存分に発揮されているということになるのです。
本当に今、此処が道だと思っているか、だからこそ独りを慎むということがどれだけできているのかを何よりも内省するのが君子なのでしょう。
子どものころは、やりたいことが本当にたくさんあるものです。あれもこれも全部やりたいと思うものです。自由というものの真価、何でもやっていいという有難い環境があることに感謝できるのです。
まさに人生のキャンパスは白紙、そこにどのような絵を描いている最中であるのか、それは単に新しいことをやればいいというわけではなく、本当に脚下の実践を大切にし自分に与えられた天与の道を丹誠を籠めて日々に歩んでいるのかという意味でしょう。
自立とは、一人一人の幸福、そして社會の幸福、言い換えれば全人類全世界の幸福に直結しているものです。
主体性とは、「性」が主体と書いて字の如くです。
自由と自立の本義を改めて確かめ直して時代の教育改革に挑戦してみたいと思います。