先日、芥川龍之介の「運命は性格の中にある」という言葉に出会いました。
これは自由というものを深めている中でとても大切なキーワードではないかと思います。自由というものを引き続き深めていますが、自由というものはその理解も言葉の定義も使う人によって異なります。
世間では一般的には、不自由に対しての自由で用いられます。これは自分を縛っているものから解放されるという意味や、自分の思い通りになることを自由とも言っています。しかしこの自由というものは与えられる自由のことを刷り込まれているだけで本物の自由とは程遠いものです。
刷り込みの自由というものは、何かと比較しての自由であったり、何かよりもましだと実感するときに与えられるものです。他にも権力や管理によって、その中で与えられたものも自由だと思い込んでいるのです。
では真の自由とは何でしょうか?
それは自分自身になるということです、自分らしくいるということです。これはあるがままの自分になるということ、自由自在の自分でいるということです。これを孔子は、50にして天命を知るとありますがそれだけ内省が深まり、自分自身の性格を悟ったということなのでしょう。
私はまだまだよくわかっていませんからあと十数年の学問の楽しみがあります。
性が象ったものがどのようになるのか、それは自分がどのようなものかを言います。自分の性が何を求めて、自分の性がどこに向かうのかを自らが知覚するとき運命というものが顕現するように思います。
つまり性格というものは、その運命によって象られる。自分の性格次第で運命が決まるという意味なのでしょう。その性格をどのように育てていくか、それが本来の学問の意味なのかもしれません。
性格を善くしていくには、元来の性格の善さだけではなくその性がどのように伸びたいのかに随って自らの道を正しく修めていく必要があります。正しく体験するというものですが、これは自らを磨き続けて自分自身になっていくということです。
この自分自身というのは、本来は産まれながらに純粋な自分の魂をより磨き、その魂の穢れを取り払い続けるように心を清らかに澄ませていくことで自分とは何かを悟るようなものです。
一つ一つの事件も出来事も、その人の性格が出ているともいえます。その人にしか起きない出来事はその人の性格がそれを呼び込むのです。性格が善くなるというのは、自分自身との真のつながり、本物の自分になるということを意味するのでしょう。
人は出会いによって自らを高めていきますから、自分の性格が何と出会っているのか、そこには本当に深い関心があります。これからも自らの直感のままに自由自在のかんながらの道を歩んでいきたいと思います。