自由という教育の本義

自由について掘り下げてみましたが、畢竟、自由は「責任」というものの自覚にたどり着くように思います。

そもそも自分自身の人生の責任を自分で持つということは当たり前のことですがもっとも難しいことと思います。責任というものの自覚も、感謝の自覚と同じく安易に知識で習得できるものではありません。

様々な人生の中での有難い体験を通して、一つ一つを実地で学び、その学びが何だったのかと慎み内省し、それを噛締め玩味し、消化し、排出してこそはじめて自分のものとして体得会得できるものです。

いくら頭で分かったからといってもそれが実地実践で体得会得したものではないのなら現実の世界ではそれはまったく役に立つことはありません。実践で役立つ真の知恵というものは、須らく自らが行動と実践により経験し掴み取った成果であり、何もしないで文字だけを読んでいても行動や実践の量が不足すれば単に分かった気になるのです。人生には訓練が必要ですがそれはめんどくさがらず謙虚な気持ちで全部徹頭徹尾体験するという向上心と志です。

そしてこの「責任」というものを学ぶためには、「自由」な環境が必要です。

人間は、自分の人生に責任を持つには他人のせいにはしないということを学び取らなければなりません。他人のせいになっている人生の責任は、所詮他人の仕業であり他人の責任であり、自分のことにはなっていません。それは自分自身の人生ではありません。

仕事でも同じく、自分の仕事だと思っていないというのは責任をはき違えているということです。これは自分のやること、これは自分のことではないという考え方はとても縛られた狭い視野での考え方です。本来は、丸ごとすべてが自分の仕事と思えているか、丸ごとすべてが自分の責任と実感しているかというのが正しい自覚というものです。

もっと簡単に言えば、自分の身に起きるすべての出来事は周りと一緒に動いている。世界は自分を含む世界であり、その世界にどう生きるかで世界は変わっていくという意識というものです。自分一人くらいは別に何もしなくてもいいではないかという意識では決してないという意味です。

たとえば、自由の環境下に人間が置かれてみますと自分勝手なことをやろうが何もしないがその人次第です。しかし、世界によく目を開き、自分が世界に存在する価値を自覚し、自分を存在させてくださっている皆様とのつながりを実感するとき、はじめて「自分の人生の責任」を自らが持たねばならないことに気づくのです。

そしてその自分一人の尊い人生を正しく歩まなければならないと直感したとき、はじめて責任を持つのは自分ではないか、責任を育てていくのは自分自身ではないかと常に教えが其処で入るのです。

これは責任は育てていくものだという考え方が大前提ですが、これは関係性の中で育っていく産物です。社會に出て社會人としての自覚を持つというのは「責任」というものを自覚するということに尽きるのです。社會に出てまでいつまでも学生ではないとよく新人が叱られるのはこの社會性の中にある自らの存在の責任の自覚が伴っていないと言われているのです。

そしてその責任とは、他人から与えられる責任ではなく、自らが自覚する責任感、つまりは責任感とは社會の中で自分が存在することに対する正しい自覚、自分の人生の責任を果たすということです。

自分の人生の責任を果たすというのは、自分にしかできないことで世の中に貢献するということです。シンプルに言えば、「つながっているのだから毎日出し惜しみせずに全身全霊で精いっぱい自分を出し切り役割と全うする」ということです。

そうやってはじめて自分の人生の責任は、自由な環境によって醸成されるものです。

自由という信に満ちた環境があってはじめての個々の自立と自律なのです。本来のリーダーが自由に生きるモデルを示すのに「自由にしていい責任は自分が取る」というのは、奥深いことで自他が自立することをそのリーダーは自らで信じているのです。

信じるという実践を形を変えてリーダーが示すもの、それが自由なのです。

信の顕現である感謝の心のように、この責任の心というものもいのちの幸福を目指すものです。自由な環境下で仲間たちと一緒に自分の責任を果たせる人というのは、見守り合う中で信じ合った絆を優先するために自分を律し自立できた人です。

畢竟、自分の人生を信じられる人だけが自分の人生の責任を持てる人なのです。

自由をテーマに、人間形成と人材育成の教育の本質を引き続き深めてみたいと思います。