龍とプロフェス

人間はその人を理解しようとするとき、その人がどのような人物であるかを客観的な判断材料によって判別するものです。

趣味とか、仕事とか家族構成などもそうですが、そのものの特徴をある程度ジャンル分けして判別するものです。

そしてそのジャンルというものは、世間一般の常識である程度この辺の人物ではないかと判断されてしまいます。特に会ったことのない人や、又聞きをする人は、ほとんどその本質を理解するのではなきっとこうだろうといった思い込みで分別してしまうものです。

一般的な人間の特徴として、発達を通してある程度の身近なことは自立できるようになります。社會性が必要ですから、他人に迷惑をかけないようにしたり、自分のことはある程度自分でできるように躾されていくのです。そのため、自分というものは他の人と同じことができるようにもなっていきます。

学校の勉強や、お手伝いなどもよほど反抗しない限りはある程度はできるようにしてくれるのです。

しかしその人本来に具わった性質や性格というものは天が与えたものです。

これは躾ようにもどうにもならず、そのものが何をやり遂げたいか、そのものにしかできないことをやろうとするのだからそれは本人にしかわからないものです。周りに合わせている自分というものと、本来の自分というものがあるのです。

本来の自分で生きようとするのがプロフェッショナルのように思います。このプロフェッショナルの語源は、「プロフェス」といい、「神に誓いを立てる使命の厳しい人」という意味になります。私なりの解釈では「大義」のことであろうと思いますが、天が与えた使命に対して天真を発揮する人物ということです。

これは自分の直感に従って、天が与えた天性を磨き上げていくということです。そしてこれとは別にアマチュアというものがありますが、アマチュアの語源は、「愛する人」といいます。これは人間の持つ愛し合う特性のことを言っているように思います。仕事では素人と言われますが、これプロではないという意味で使われているのでしょう。

人間、如何に自らの使命に燃えてそれを貫き果たすかはその性を生きるか、そしてその性にどう死ぬかという生死を度外視して一期一会の今を生き切っていこうとすることだと思います。

相田みつをさんにこのような詩が遺っています。

「プロというのは、寝ても覚めても仕事のことを考えている。生活すべてが仕事。そこがアマチュアとの絶対差だ。」

この絶対差というものは、自分の信念を生き切っているかどうか、自分のいのちを遣りきっているかどうかの差のことでしょう。

自分にしかできないことを遣るという意味の難しさは、世間の常識や世の中の分別知からかけ離れていますからずっと誤解ばかりで大変さは痛感していますが、それでもやむにやまれるのは自分の中に棲まう大和魂という名の龍が居るからです。

志を高めて、大義に寄り添い、一期一会の今を味わっていきたいと思います。

人間関係

人は世間の常識を当たり前だと思い込みます。そして自分の都合でより当たり前意識というものは刷り込まれていくものです。

会社だからこれをしてもらって当然、夫婦だから当然、上司部下なのだから当然、国民なのだから当然、親子だから当然、親友だから当然、兄弟だから当然と、お金を払っているのだから当然、等々、何でも当然かのように錯覚してしまうのです。

特により親しい間柄になると相互依存しますから余計に当たり前意識というものは根付いてしまうのです。しかしここに自我が優先される大きな落とし穴があるのです。

世間では、外側から観察した「当然」という名の常識があります。たとえば親子なのだからは当然、つまり親は子どもの面倒をみる責任と義務があり、子は親の面倒をみる責任と義務があると世間では常識としています。

しかしこれは当然だから親子なのではなく、実は「当たり前ではない」関係が存在しているのです。お互いにお互いを尊敬し感謝し、そして親子をさせていただける有難さを実感することではじめて親子に為っていくのです。

他にも上司部下でも同じです、これは当たり前ではなくお互いを尊重し尊敬し合い、感謝し助け合うことではじめて上司部下に為っていくのです。その絆を結び、深めて高めることで有難さを実感できるようになり、上司部下であることに感謝できるのです。もしこれを上司なのだから部下の世話をするのは当たり前、また部下の面倒をみるのが当たり前だと、それを常識だとしてみるとします。

すると、すぐに関係が崩れていきますしお互いが自分の都合を相手に押し付けるようになってしまいます。これではどちらかが我慢をしたり無理をしますから限度がきたら関係はまた崩れてしまいます。

畢竟、人間関係は「思いやり」ですから、どちらかの思いやりが足りていないと相手を傷つけてしまったり相手を苦しめてしまったりするのです。

人間関係の思いやりというのは、相手を思いやることで自分自身が如何にその存在に救わているのかを自覚することです。相手がいなければ周囲がいなければ今の自分は存在できていません。また過去の人たちがいなければ今の自分がないのです。

そういう様々な御蔭様の中で私たちは存在を活かされています。つまりは必要とし合っていきているのです。必要とする関係の中に感謝がありますから、大事なことは思いやりを忘れないようにしていくことだと思います。

人間関係を守るというのは、離れていても相手のことをいつも思いやっていることです。自分が大変だからと周りとのつながりを断絶しないことかもしれません。自らが大変な時こそ、周りの人たちへの感謝を忘れないことかもしれません。

私もつい色々と肩の荷が増えていくと自分のことを心配しすぎることがあります。そもそも自他を信じているのですから、自分のことよりも周囲を思いやれる強さと優しさを持ちたいと思います。

「思いやり」とは一つ一つのことに「心を入れる」ことです。

日々の実践に真心を籠めて、形骸化しないように魂と人格を磨いていきたいと思います。

今と人を大切に~一期一会~

人間は誰かを思いやることで礼儀を学びますが、その礼儀は感謝を忘れないということにつながっています。

そもそも親しい仲になるというのは、お互いに分かり合っている関係のことです。お互いの性格を知り、お互いのことを信頼し合うから親しくなっていきます。そしてそういう関係が当たり前になってくると、遠慮がなくなり失礼なことをしてしまいます。

失礼とは、読んで字のごとく礼を失したということで当たり前のことをしなくなっていくのです。思いやりや気遣いが足りず、相手の存在を蔑ろにしてしまいます。これは人にだけ関係することではなく、あって当たり前やこうあるべきであるのは当然だというような思い込みは感謝を忘れている証拠です。

自分が今、生きていることや、自分が助けられていること、自分が健康であることや、自分が必要とされていることなども当たり前のことだと思ってしまえば感謝はなくなっていきます。感謝がなくなってくれば傲慢になりますから、言葉や態度がとても相手を傷つけてしまうのです。

あって当たり前というものはない、それは人生は一期一会であるからです。

この今はもう二度と戻ってきませんし、このご縁は二度と同じようにはなりません。いつまでも続くことはないからこそ、何よりも大事にしようとする生き方が必要なのでしょう。今の時代は、お金を中心にしたつながりや、肩書きを中心にしたつながりが優先され、形式的な関係の中で常識を優先しようとしてしまいます。

取引先という言葉であったり、上司部下であったり、雇用関係であっても何かそこに当たり前といった常識から物事を決めつけて人に接するような風潮もあります。しかし本来のご縁は一期一会ですから、そこに常に「礼儀」があるということなのです。

礼儀とは、相手を思いやり、当たり前ではないことに感謝していることで実践されるのでしょう。私はまだまだで、自分のことばかりを考えては親しい人への言葉も丁寧にはなりません。天が自分に与えてくださっているのは天が真摯に苦悩するこんな自分の姿を憐れんで使わしていただいた大切なご縁です。

人生を振り返ってみても、いつも大事な局面で応援し励まし、一人ではない、いつも見守っていますよといってご縁をくださっているように思います。それはまるで父母の恩徳のように、有難いものだったように思います。

親しい仲とは、親と仲の字で構成されます。これは親しいというのは、親との関係のようなものということです。いついかなる時も見守ってくださっていることを自分自身が忘れないことが「親しき仲にも礼儀あり」ということなのかもしれません。

見守られることは当たり前ではないということを自覚し、自分も見守らせていただけることも当たり前にしないと覚悟することが礼儀を重んじることかもしれません。二度とない出会いをしているのが人生ですから、今と人を大切にしていきたいと思います。

一緒にはたらく

人には与えられている中で感じる自由と、与えられていなくても感じる自由があります。

与えられる自由というものは、相対的なものであり相手の意図や意志がそこに入っていますからその中で自分がどうするかというものを考えるものです。しかしもう一つの自由は何かといえばこれが私が思う自由で全体の幸福のために自分から親切にしていくときに感じる自由です。

人は自分の問題になるのも自分の責任になるのも自他一体にならないとそうはなりません。どこかで自分と他人や、あっちとこっちと分けていたらいつまでも本当にそのものと一体に同化することができないからです。

みんなと一緒に取り組むということや、絆を結んで協力するというのは自分を自由に存分に社會の中で立てていくことです。そしてそれは人に親切にすることだと私には断言できます。自分のことを考えてから相手のことを考えるのではなく、みんなの幸福を考えていれば自ずから相手のことも自分のことも、周りへの思いやりも発揮できるのです。

そうしてそういう時にだけ人は無私や無我になりそのものと一体になれるのです。

誰かの御役に立ちたい、誰かに必要とされていたい、誰かに愛されていたい、人間がそう思うのは自分の存在価値を自分自身が確かめたいからです。だからこそ人間は自分の能力を磨いて誰かのために使おうとするのです。しかし、能力がなければ役に立たないかといえばそうではありません。その時、同時に「はたらく」のは存在価値の真価です。

その存在が如何に大切かということをお互いに確かめ合うのです。それが「つながり」というものです。自分からつながりを感じることでお互いの存在価値を知るのです。人は社會性の生物です。言い換えれば地球にいる全生命は社會性の生物ともいいます。

それらの生物は、もっとも「つながり」を求めます。それはお互いの存在価値を確認したいのです、必要とされていたいのです。だからこそ社會はつながりを必要とし、そのつながりの中で自分自身が実感していくのです。

「はたらく」というのは必要となることです。それは「つながっていく」ことです。自分から自分の存在価値に気づいていくことです。そしてそれを実現するのは、自ら積極的に親切に自分を出し切っていくことと人生を愉しむことであろうと私は思います。

何かしなければ役に立たない、何もできないので自分はいらない、能力やそのものの価値を誰かの価値基準によって裁くというのはつながりの断絶です。つながりはもっと偉大でもっと無限に広がっていますから必要しかない世界なのです。

思いやりのない世界にはつながりは存在できません。「はたらく」ということは思いやりに生きるということなのでしょう。「はたらく」ことがいのちを幸福にしていくということを忘れず、また存在はすべて自分をいつも陰ひなたから助けてくださっているのだから感謝を忘れず、そしてつながっていくことを忘れず、この三つの忘れないことを大切に「一緒に」歩んでいきたいと思います。

愉快な仲間

昨日、久しぶりに共に苦労を分かち合った園長先生と一緒に会食をすることができました。

今では別の組織へ移動し、改革の担い手として新しい道を切り開こうとしていらっしゃいます。

歩んだ道が確かだったかどうかは時間が経つことで観えてきます。共に何を信じて実践してきたか、そして何を信じて生きてきたかが道跡として遺っているからです。思い出話に花が咲きましたが仕合せだった出来事にすべて美化されていきました。今の仕合せに出会うということが本当の幸福なのかもしれません。

善いご縁をいただけるということは運命であるようにも思います。人は自分が生きようとする生き方で仲間を集めてご縁が広がります。生き方が運命を決め、運命が人生を決めていきます。誰と出会うか、そしてどう生きるのかはその人のものですから学問の有難さ、仲間のお蔭さまに涙がでます。

私は最初に創った理念ブックのはじめのページに次の論語を書きました。

「子曰わく、与に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。」

道中では色々な方々とのご縁がありますが、その一つ一つの出会いが深い意味があります。みんな道は一人で歩みます、しかし道中は語り合うこと、支え合うことができるのです。それが人生の美しさなのかもしれません。

その方が何より素晴らしいことは「愉しむ」ことを忘れないことです。思い返せばお会いしたときから、苦しいことがあっても愉しむ方でした。そして神仏の御加護だと謙虚に真摯に学ぶ方でした。今でも本当に理想を志して大変な中で奮闘しているのではないかと察しましたが愚痴ひとつ溢さずに「知らないことが沢山で毎日が愉しい」と快活に語られる姿に歩みかたの醍醐味と覚悟の仕方を教えていただきました。

「おもしろきことなきこの世をおもしろく」という高杉晋作の言葉は、ひょっとすると全ての人生の責任は自分のものなのだから自分の人生を愉しむのだという志を立てよと仲間を激励しているのかもしれないと実感しました。

ご縁は本当に不思議で日々に辿っていけば、目の前にいる人も目の前にいない人もそこでは確かな糸と絆で結び合っていますから出会いは何よりの学びです。

そして出会いを実感するとき、同時に誠に有難きは生きているということです。

生きてさえいれば、いのちさえあれば愉しみも希望もそこに全部丸ごと存在します。

昨日の気づきから自分は愉しみをまだまだ存分に伸ばしていけると実感しました。仲間や同志、先達が愉快な背中でそれを語り掛けてきます。あんまり真面目に頑張りすぎて悩まないこともまた道の福処世術なのかもしれませんね。

生きているこのいのち、どのような華を咲かせるかは人生の終焉の愉しみですから唯一の自らの天与の道を明るく素直に小唄でも口ずさみながら朗らかに歩んでいきたいと思います。

また一緒に道中を愉快な仲間たちと味わい語り合える日が楽しみになりました。
有難うございました。

バカになる生き方~神家人~

吉田松陰の松下村塾に高杉晋作がいます。

学問を同じくし、志を高めて生涯を貫いた同志として松陰亡き後燦然とその性を時代に発揮します。行動力と勇気と責任感がある人物であるのはその人の生き方からも実感できるものが多く、その遺した言葉からは魂の情熱を感じます。

人は志を立てるなら狂人となることを恐れないというのは、他人から愚かだといわれようが為すべきことを為すということに求道者としての使命を実感します。この愚か者でありつつ求めよというのはあのアップルのスティーブジョブズの学生へ向けたスピーチの中で残した「Stay hungry, Stay foolish.」と同じ言葉です。

高杉晋作はそれをこう言います。

「少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。」

愚者と思われる人になっているというのは、一途であるということです。自分の真の使命のために一心不乱、わき目も振らずに突き進む集中力がなければ物事は大成することはありません。私も直感を信じる人間ですから、色々な雑念をかき分けながらも真心を尽くそう、誤解されても遣りきろうと発奮してはふざけた自分を味わっています。

「天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい。」

これも私の生き方と同じです。

思いを形にしていくというのは、その志を磨くということです。そしてその志は実践と実行してのみ心が働くのです。その例として下記のような言葉もあります。

「心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。」

「戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい。」

戦う前に負けるというのは、戦わないから負けるということです。戦って負けるのではなく、戦わないのも負けなのだということを言い切るのです。そして思っていることを口に出せるというのは、心が行動に直結しているということです。まずはやってみるのだという、草莽崛起する志を自らが示すことを忘れないのです。

心は思っているだけでは成長せず、実地行動してこそはじめて育つものですから自らが勇猛果敢に取り組むところにこそ息づくのでしょう。

「シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ。そのためには、奴隷になっても、下僕になっても構わない。」

ここからも自分の保身ではなく、「何のために」ということを決して忘れない生き方があります。保身とは何のために行うのかを忘れるときにこそ行う自己満足のようなものです。そんなことでは世界を変える前に自分を変えることすらできなくなるのです。

人間の人生は短く、やるかやらないかは自分次第ですからできるできないを物差しにするのではなく何のために生きるのかを物差しにすることが志なのでしょう。大事な局面で自分のことや相手のことばかりを考えるのではなく、全体の仕合せ、世の中の幸福のためにどう生きるのかを覚悟することが志士の心得なのかもしれません。

歪んだ正義を振りかざす前に、本来の大義に生きた人たちのことを思い、その人たちに恥じないように自分を見つめることが初志を定めることなのかもしれません。

高杉晋作は維新の原動力の一人だと思いますが、「おもしろきことのなきこの世をおもしろく」生きたかったのだと思います。その愚かな一言を参考に、真面目も糞真面目も乗り越えてふざけきって歌舞いていきたいと思います。本質で観たらすぐに自明することですが本当に自分が真面目だというのなら、真面目風をさっさとやめてしまった方がまだ真面目なのです。

「これよりは神家男児の腕前お目に懸け申すべく」

それが神家で生きる神家人らしさと背中を育てていきたいと思います。

世間からいくらバカだと言われようが、おかしなことを考えると思われようが、自分には全くそれは志には関係がないことです。

私が子どもだったなら、いつも子ども心に憧れるようなかっこいい大人の生き方を最期の最期まで時処位を見逃さず生き切っていきたいと思います。

真心の醸成(志道と志事)

吉田松陰の志というものは、多くの志士の心を動かしました。

そこには志というものが何か、そしてそれは何をもって志が育っているのかということを自らの背中を通して塾生に語り掛けました。周囲からは狂人と呼ばれ、危険人物として疎まれました。

本来、志高く歩む人を理解するというのは周りからみれば変人の類なのかもしれません。一般的な姿と考え方も異なり、見た目も異なり、素行も異なるのは、常識の枠に囚われることがないからです。

吉田松陰もその時代には常識的に理解されず、それでもそれを貫きました。たとえば、友との約束のために脱藩をします、今では外国に亡命するくらいのことです。そのあと黒船に乗ろうとします、これは宇宙船に乗るようなものです。そして安政の大獄の真っただ中、仮保釈中に老中暗殺のために武器を藩に願い出ます、これなどは仮出所中に銃や武器を国家や裁判所に貰いたいと嘆願するようなものです。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という言葉も遺ります。塾生たちに遺した言葉には「諸君、狂いたまえ」などという言葉も残っています。これなどは、「もっとおかしくなりなさい、遣り切りなさい」と他人と異なってもいいからもっと変人になることを奨めているのです。

なぜこうすればこうなるとわかっていながらもこれをやり遂げたのか、そこには本人にしかわからないものがあったのだろうと私は思います。

吉田松陰の立志という生き方はまずこれらの言葉に見られます。

「志を立てて、以って万事の源となす」「志定まれば、気盛んなり。」

すべては志からはじまり、そして志におわるという意味でしょう。そして志は覚悟が決まれば、気が満ち溢れ燃えているはずだというのです。

そして孟子の下記の言葉を引用して「講孟余話」という授業の中で弟子たちに発奮激励を語ります。

「志士は溝壑にあるを忘れず、勇士はその元を喪うを忘れず」

意訳ですが(志士ならば道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟し、真の勇士は志のためならばいつ首をとられてもよいと覚悟を決めているのだ)という意味です。

そしてここにはこう続きます。「書を読むの要は、是れ等の語に於て反復熟思すべし 」と。

志士が本を読む意味は、これは孟子のいうところを繰り返し繰り返し読み直しその書いている本人の真心に透徹するまで思うことであると。読むというのは単に字を読めばいいのではなく、志で道を切り開く同志を思いそれに志心を奮い立たせていくということでしょう。

吉田松陰の志道というものは、決して仕事ではなく志事であったのです。

言い換えれば、人生を懸けて志を貫こうとし、それを塾生たちが感じ取ったのです。吉田松陰は出来合いの指導などを行っていたのではないのです。では塾で何を行ったのか、それは志道と志事を実践していたのです。

その塾生の一人、高杉晋作はこう言残します。

「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大ばか者なり」

そしてもう一人、高杉と合わせて塾生の双璧と呼ばれた久坂玄瑞の言葉で締めくくります。

「私の志は、夜明けに輝く月のほかに知る人はいない」

私の志も、あの天高く広がる宇宙のほかに知る人はいないという心境です。別に誰に分かってもらう必要もないし、誰に知ってもらう必要はない、ただ自分の志道を貫くだけというのがこの志の道の目指すところなのでしょう。

色々な出会いがあり今がありますが、易経の「潜龍用いるなかれ」、その信念を日々に棲む水面に憂いつつもその真心を醸成し、確固不抜の志を高めていきたいと思います。

立志という生き方

人にはそれぞれに生き方というものがあります、同時に働き方というものもあります。私たちは生き方と働き方を一致するということを目指していますが、これは志を育てるためです。

そもそも志というものは、最初から誰でも持っているわけではりません。生き方を定め、言行一致させていく中ではじめて志は育っていきます。そしてその志は、様々な現実の中の紆余曲折、艱難辛苦の中で、それでも自分は生き方を貫けたかどうか、言い換えれば道を切り開き脚下の実践を遣り切ることができたのかという内省により醸成されていくものです。

志を持つのも育てるのもその人次第です。

途中でそれを已めてしまえば、世の中の安逸の中であっという間に自分の生を終えてしまいます。人の人生はとても短く、志を育てていかなければ気がつけば何をやっていたのかと悔いてしまうことにもなりかねません。自分の生き方と向き合うのは自分にしかできませんから、それに生き方には嘘がありませんし他人のせいにもできませんから志とはもっとも身近で自分のことを信頼する伴侶そのものになっていきます。

吉田松陰は、塾生との手紙のやり取りの中でその志が育つような数々の叱咤激励を送っています。

たとえば、塾生の山田顕義へは「立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。 身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。 百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ。 」と記します。

これは私の意訳ですから意味が違ってくるかもしれませんが敢えて訳すと、「志を立てるのならば他人と異なることを恐れてはいけない、世俗のことや常識の中でそれを実践するのはとても難しいことだ。しかし世間の常識に囚われれば自分の身の保身ばかりを思い煩い、目先の安楽安逸に流されるばかりになるのです。百年という月日は一瞬に過ぎないのですから、君子は決して現状に甘んじるんではなく志に生きるのですよ。」と。

これは山田顕義が15歳の元服(成人式)の時に、吉田松陰が扇に書いて送ったものですが何を優先してあなたは生きるべきかとその初心を塾生に自らの生き様で与えています。

そしてさらに感動的で印象に残る叱咤激励に塾生の高杉晋作に送った手紙があります。
そこにはこうあります。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。」

これはそのままに味わってほしいものです。吉田松陰と高杉晋作が如何に志で絆を結び、共に不二の道を切り開いていたのかが分かり感動します。死を前にしての、生を語り、その生き方を示しています。

そして志を立てることを最期に述べます。

「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

これは私の人生観からの意訳ですが、「もし死んだとしても志がそれで立てられるのならいつでも死んでもいい。しかし生きて志が立てられるのなら生きることだ。常に志を求め言うのなら、常に自らの生死のことなどは度外視して志は語るものだ。」

「立志」という生き方。

これを実現したのが松下村塾なのでしょう。

孟子はこう言い遺します。

「自ら反りみて縮くんば、千万人といへども、吾往かん」

そして孔子はこう言い遺します。

「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」

引き続き、君子の道とは何かを自問自答しつつ覚悟を育てていきたいと思います。

 

野生種と共生

世界では30万種の植物があると言われますが、その中でも私たちが主に栽培しもっとも生活で利用しているのは3種類だと言われます。それは稲と麦とトウモロコシです。その中でも稲は世界人口の4分の1が毎日食べますからそれだけ稲の存在は大きいということです。

今回そんな中で、偶然にご縁があって自然農での野生種の蕎麦をはじめることになったのですがそこでもいろいろな発見があります。

そもそも私たちが暮らしの中で食べている植物は、先祖が長い時間をかけて野生していた植物を栽培してきたものです。その栽培を通して、色々な品種改良を行われてきました。それは長い時間の関係性においてそのものとの相性を高めて共生をすることでお互いにメリットが多い絆を結ぶのです。

たとえば有名なものでは、犬がありますが犬はもともとオオカミや山犬というように野生のものは人間と暮らすようには変化していません。それを長い時間をかけて人間とともに生活していく中で顔は丸くなり、尻尾はふるようになり、番犬や狩りの手伝いなど人間と一緒に食べて暮らしていく中で変化してきたといいます。

他にもミニマムでは麹菌という発酵をする菌も、同じように最初は野生のカビ菌で人体に有害でしたが麹屋が長い時間をかけて人体に有害なカビだけを取り除き、人体に有益なカビを長い時間種菌として育てて増やしていくうちに今の麹菌になったのです。

野生種と栽培種というのは、言い換えれば人と共に生きてきたか、それとも人とは異なるところで生きてきたかという違いのことを言います。

蕎麦というものにも同じくそれがありますが、蕎麦はもともと石がゴツゴツしたあまり土地が栽培に適さないところに野生するのが本来の姿です。タデ科といって、あまり虫も食べず周りの野草を抑制することで有名ですが昔は飢饉のときにそなえて農民たちが栽培に取り組んできたものです。

野生種には特徴があります。

その一つは「種子の脱粒性」です。これは稲や麦などは収穫する際にも種が着いたままですが、野生種は少しでも触れるとポロポロと落ちていきます。野生は、実れば自然に地面に種を落とすのですが栽培種は落とさなくなっています。これも長い時間をかけて種を落とさない種だけを大切に育てて栽培に適するように変化させたのです。

他には、「種子の休眠性」というものがあります。これは大豆などはほとんど毎年発芽しますが野生種は周りの状況を観て発芽するかどうかを自らで判断するというものです。よく発芽率などと書かれていますが、本来野生種はあまり発芽しないのです。何年も、自分の出ていくときを狙い定めて出ていくという具合です。これも長い時間をかけて先祖が発芽するものだけを選んで残し育てて栽培に適するように変化させてきました。

野生というものはそのまま地球自然に合わせて自らが自生したものであるのに対し、栽培したものは人間に合わせてお互いに共生したものです。如何に関係性を結ぶかということの中に、この地球で長い時間を生きていく共生と貢献が育て育ちあう関係ということでしょう。

お互いが必要とし、お互いが協力をする、これが何よりも種の永続性を保障すると確信していた先祖には本当に頭が下がります。今の時代は、共生ではなく管理によって自分のみの利害によって生き延びようとしています。昔の品種改良はお互いの共生と貢献ですが、今の遺伝子組み換えなどの品種改良は言い過ぎかもしれませんが人間側の一方的な強制と迫害、搾取のようにも目に映ることがあります。

果たしてこれが本当に永続性を保障するのか、先祖が選択しなかった方法ですがこれがどうなるのかは農薬や肥料の先に土が疲弊し涸渇するのをみていたら一目瞭然です。先祖が大切に何千年の何万年も築いてきた今までの関係を破壊するツケがいつの日かまわってくるようにも思います。

野生種を育てるということがどういうことか、もう一度考えて学び直してみたいと思います。蕎麦ははじめてですが、野生種に近いものと触れるのは発見ばかりです。楽しく取り組んでいきたいと思います。

むすひ

日本には古来から「むすひ」(結び)の信仰があります。

禮を深めて最初に出会うのがこの結びという考え方です。本来、中国で産まれた禮ですが日本に渡来してから日本のものへと発展しているように感じます。先日、流鏑馬でご縁をいただいた小笠原流礼法も紅白の紙で包むや糸を結ぶという作法が沢山存在しています。

これは日本の古来の精神と禮が合間って取り入れられたのかもしれません。

この「むすひ」というものが何であるか、京都の平安神宮のHPから引用させていただくとこう書かれています。

『日本の「結び」は「物を結ぶ」という以外に、人と人、心と心の関係をも「結び」として表され、特別な意味がふくまれています。たとえば結婚式は、男女が結ばれ両家が結ばれる大切な儀式です。神楽殿 ご縁を表す「むすび」は、古くは「産霊(むすひ)」いって、すべての物を生み出すご神威のことを表していました。天地・万物を生み出された神様に高皇御産霊(タカミムスヒノカミ)・神皇産霊神(カミムスヒノカミ)、出産の際に見守って下さるのが産神(ウブガミ)という産霊の神様です。 また、産土(ウブスナ)の神様というのはわたしたちが生まれた土地の神様で、氏神様や鎮守様とも呼ばれますが、どこにいても自分の一生を見守って下さる神様です。神と自然とすべてのものと結ばれている存在が、わたしたち人間です。そして、この感覚を信仰の形で伝えているのが神社なのです。神社の祭りでは、まず始めに神様にお供え物をして、終わると「直会(ナオライ)」といって、そのお供えをおさがりとして食します。神と共にいただく、つまり神様と一体に「むすばれている」ことが大切なことなのです。』

神道では、連綿と絆が結ばれて永遠であるものを縁起としています。言い換えれば出会いやご縁というものには何かしらの偉大な見守りがあると信じているということです。

そしてその結ばれたところにこそ神威が宿ると観えていたのでしょう。

自分が一体、何と結ばれてここまで来たのか。ご縁は果てしなく結ばれた中に今の自分が存在し得ています。これはつまり宇宙とは結びによって存在しているということを意味するのです。

たとえば、父母が結ばれなければ自分は存在できず、その土地と結ばれなければ自分は育たず、魂が結ばれなければいのちも産まれません。言い換えれば、「むすひ」とは、万物のはじまりを顕し、そこが永遠に続いているということを示す言霊なのでしょう。

他人に対する禮の真意は、この「むすひ」をどれだけ忘れていないかということでしょう。

出会ったこと、ご縁があったことにどこまで感謝を示しているか。それは出会って何が産まれたのかを信じているということです。様々なことと結ばれるところに発展と繁栄が存在しています。その発展と繁栄に感謝を添える、真心を尽くす、そこに禮の姿があるということです。

一つ一つをキチンと結んでいくのか真の自立なのかもしれません。心というものをどのように表現するか、その禮をまだまだ深めていきたいと思います。