バカになる生き方~神家人~

吉田松陰の松下村塾に高杉晋作がいます。

学問を同じくし、志を高めて生涯を貫いた同志として松陰亡き後燦然とその性を時代に発揮します。行動力と勇気と責任感がある人物であるのはその人の生き方からも実感できるものが多く、その遺した言葉からは魂の情熱を感じます。

人は志を立てるなら狂人となることを恐れないというのは、他人から愚かだといわれようが為すべきことを為すということに求道者としての使命を実感します。この愚か者でありつつ求めよというのはあのアップルのスティーブジョブズの学生へ向けたスピーチの中で残した「Stay hungry, Stay foolish.」と同じ言葉です。

高杉晋作はそれをこう言います。

「少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。」

愚者と思われる人になっているというのは、一途であるということです。自分の真の使命のために一心不乱、わき目も振らずに突き進む集中力がなければ物事は大成することはありません。私も直感を信じる人間ですから、色々な雑念をかき分けながらも真心を尽くそう、誤解されても遣りきろうと発奮してはふざけた自分を味わっています。

「天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい。」

これも私の生き方と同じです。

思いを形にしていくというのは、その志を磨くということです。そしてその志は実践と実行してのみ心が働くのです。その例として下記のような言葉もあります。

「心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。」

「戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい。」

戦う前に負けるというのは、戦わないから負けるということです。戦って負けるのではなく、戦わないのも負けなのだということを言い切るのです。そして思っていることを口に出せるというのは、心が行動に直結しているということです。まずはやってみるのだという、草莽崛起する志を自らが示すことを忘れないのです。

心は思っているだけでは成長せず、実地行動してこそはじめて育つものですから自らが勇猛果敢に取り組むところにこそ息づくのでしょう。

「シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ。そのためには、奴隷になっても、下僕になっても構わない。」

ここからも自分の保身ではなく、「何のために」ということを決して忘れない生き方があります。保身とは何のために行うのかを忘れるときにこそ行う自己満足のようなものです。そんなことでは世界を変える前に自分を変えることすらできなくなるのです。

人間の人生は短く、やるかやらないかは自分次第ですからできるできないを物差しにするのではなく何のために生きるのかを物差しにすることが志なのでしょう。大事な局面で自分のことや相手のことばかりを考えるのではなく、全体の仕合せ、世の中の幸福のためにどう生きるのかを覚悟することが志士の心得なのかもしれません。

歪んだ正義を振りかざす前に、本来の大義に生きた人たちのことを思い、その人たちに恥じないように自分を見つめることが初志を定めることなのかもしれません。

高杉晋作は維新の原動力の一人だと思いますが、「おもしろきことのなきこの世をおもしろく」生きたかったのだと思います。その愚かな一言を参考に、真面目も糞真面目も乗り越えてふざけきって歌舞いていきたいと思います。本質で観たらすぐに自明することですが本当に自分が真面目だというのなら、真面目風をさっさとやめてしまった方がまだ真面目なのです。

「これよりは神家男児の腕前お目に懸け申すべく」

それが神家で生きる神家人らしさと背中を育てていきたいと思います。

世間からいくらバカだと言われようが、おかしなことを考えると思われようが、自分には全くそれは志には関係がないことです。

私が子どもだったなら、いつも子ども心に憧れるようなかっこいい大人の生き方を最期の最期まで時処位を見逃さず生き切っていきたいと思います。