樹霊という言葉があります。
これは大辞林には「老木に宿っている霊」と書かれていますが、数百年から数千年の老木には霊が宿っているような様子があり、神道では神の依代として崇められてきました。それを樹霊があると呼んだのでしょう。
先日から樹木について深めていますが、銀杏の巨樹の新芽を見守りつつ学び直しています。
以前、宮大工の西岡常一さんの著書や映像の中で法隆寺の木について語る場面がありました。千年生きた木だからこそ千年の建物ができる、千年の木には千年の釘がいるといって和釘の重要性を説いていました。
その際、千年生きた木には何か千年生きた霊が宿っているのではないかと直感したのを覚えています。それは木に限らず、石なども同じです。以前、偶然に拾った石英の石を鑑定していただいときにここまでくるのに1億年といわれました。そこには1億年の石霊が宿っているように私には実感して感動したのを覚えています。
人間はこれらの長い年月の霊と寄り添うときにだけ、永続してきた今を実感できるように思えます。
今の時代はそういう長い年月の霊を大切にせずに、現代文明の知識の方がさも優っているかのように軽々しく破壊していきます。宿っているものの価値を感じず、ただの物体としてしか感じられなくなっているところにいのちを感じる感度も、それを見守り大切に伝承していこうとする民度も喪失してきたように思えます。
司馬遼太郎が「樹霊」という著書の中でこう語ります。
「人間の暮らしから樹霊の連り添いと樹霊への崇敬の心をうしなったときに、人間の精神がいかに荒涼としてくるかをうすうす気づいて、おびえるような気持でいる」
人間以外の生き物がいないと思い違いをし、人間だけが生きているのだと周りの生き物をエサかのようにいのちを蔑ろにし、それだけ生きながらえようとすることへの気持ち悪さ。いのちをいただくのではなく単なる食べ物、感謝で大切にするのではなく単なる道具と化していく心の貧しさを実感するのです。
人間は人間だけで生きるものではなく、色々な生き物の中に人間がいるだけです。心が亡くなってくれば人は、そこに宿る霊を感じることもできなくなるのかもしれません。
伝承してきたものは実はそのものに宿った霊(魂)こそにあるのかもしれません。八百万の神々という思想は、心が優しく思いやりに満ちた社會を存続していくための先人の智慧の結晶だったのでしょう。
子どもたちに遺した先人の思いやりや願いは今を生きる私たちの実践する姿の中に宿っています。いつまでもその霊魂を感じられ、霊魂を入れられる祈りを大切にした生き方をこれからも選んでいきたいと思います。